昨日2名が死刑執行された。ヤフーニュース欄に掲載された毎日新聞の記事(和田武士の署名がある)は、二人の死刑執行に関連して、“今回の執行で「死刑制度維持」という政府の姿勢が改めて鮮明になった。”と報じた。続いて、国際的に批判が多いと書き、最後に、“政府は単に執行を重ねるだけではなく、制度の存廃にとどまらない幅広い議論を喚起するためにも、情報公開を進めていく必要がある”と結んでいる。https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20181227-00000077-mai-soci
 
これは死刑制度に反対する勢力が、その廃止を目論む政治的プロパガンダとして書いた記事だろう。報道機関が少なくともニュースとして流す内容の記事ではない。何故なら、今回の執行は、日本という法治国家において、法に従ってなされただけだからである。死刑制度の是非を議論するのなら、ニュースとしてではなく、今回の死刑執行からは一度離れて、社説或いは論評記事として独立させるべきである。

文章を書き、それを発表することを業務としているからには、その辺りのことは十分知っている筈である。つまり、毎日新聞は一般紙ではなく、何かを目論む一派の機関紙的存在のように思える。購読は、それを承知の上ですべきである。

1)死刑制度について:
死刑制度の是非が議論されて久しいが、内閣府の調査によると、世論の80%は死刑を容認している。従って、それを法的な問題として深刻に議論するとしたら、それは専門家だけだろう。https://www.nippon.com/ja/features/h00101/

日本では、今回の死刑執行を国内問題として批判する根拠は全く無い。執行の命令書への署名は、山下法務大臣が本来の業務をこなしたに過ぎない。ただし、外交問題(つまり政治問題)の一つとしては、後で述べるように議論の余地はあると思う。

 
ここでは、裾野を広くとって一市民の立場から死刑制度を考えてみたので、以下にそれを書く。先ず、(素人の浅はかな知恵と言われるかもしれないが)ウィキペディアで死刑制度の議論を見てみた。そこには、社会契約説、人権、誤判の可能性、犯罪被害者への配慮、死刑の犯罪抑止効果、世界の趨勢、社会が負担するコストなどの側面から死刑制度の是非についての議論が整理されている。その項目を以下利用する。(捕捉1)
 
この中で、一番の問題は誤判の可能性である。従って、その犯罪と裁判に関する情報の公開は死刑制度を維持する上での必須要件だろう。更に、その情報を一般民が理解する時間的余裕を、結審更に執行までに置き、疑義があるとの主張があれば、それを裁判所或いは行政府は吸い上げる制度を作るべきだと思う。その情報公開は、一審終了後になされるべきだと思う。裁判権も本来、一般市民の権利に由来する筈だからである。誤判の疑いが無いと仮定して以下議論を続ける。

上記議論すべき諸要素の内、犯罪被害者への配慮と死刑の犯罪抑止効果についての深い議論は不要だと思う。犯罪被害者として残されているのは、被害者家族だろう。被害者家族については、経済的困難が生じれば、それに対する保障を社会福祉の観点からすべきである。被害者家族の報復欲求は当然存在するが、社会が法的処罰をする以上それは許されない。

犯罪抑止効果は、今後の同一犯人による類似犯を防止するという意味では、終身刑を制定することの議論と同じである。しかし、最後に議論するように、死刑が犯罪人の社会からの排除であるとすれば、排除した者を経費を掛けて長期隔離する必要はない。また、その抑止効果が、当事者以外の同種犯罪を抑止するという意味なら、それは死刑制度の副次的効果である。死刑制度を、「社会と個人の関係」の一つである「犯罪と処罰の関係」として根本的に議論する際、主なる目的について結論を導き出すのが先ず大事だと思う。

やっかいなのは、「世界の趨勢」であり、それに伴う国際的圧力である。国際的圧力には、「世界の中の日本」が短期的及び長期的に考えて、利益を損なわないように配慮すべきである。(補足2)
 
2)最後に残ったのは、社会契約説及び人権との関係での死刑制度の議論である。一言で私の考えを言えば、「一般の善良なる市民を自己の利益のみを優先して殺害した者は、社会に参加しその恩恵を受けて生きるという生来の権利を放棄した」とみなせる。社会の外にあるヒトは、動物としてのヒトに過ぎず、当然人権など存在しない。
 
その社会に属することを拒否したヒトは、社会から最も明白な形で排除されるのは自然である。死刑が相当とされるような例えば無差別殺人等は、国家と国家の戦争や、政治的テロリズムと似ている。現在の国家体制の下にある社会を、基点に内外の差があっても、否定するという点でこれらは全て同じである。つまり、テロに銃撃で応じることと、無差別殺人犯を死刑にすることは同等である。(補足3)

死刑廃止を人権問題として取り上げることは、上記考えを採用すれば不思議なことであると言わざるを得ない。「人権を放棄した者を排除する機能を社会が持つことは、人権問題である」という不思議な主張となるからである。この人権を背景にした死刑廃止論の発生理由と経緯が私にはさっぱりわからない。(捕捉4)それは単に残忍な光景を想像することで、気分が悪くなるというナイーブな人たちの主張ではないだろう。

一つの仮説は、それは高度に計画された国際的な政治的企みだという考えである。それは、民主主義という理想論と同時に、世界をコントロールするために出されたものだろう。

民主主義は先進国の看板にするには相応しいが、それを全面的に採用すれば国家がまともには機能しないことは明白である。(捕捉5)まともに運営されている国家では、現実的に国家を運営する制度が別に作られている。日本では米国追従路線とそれをよしとする官僚制度であり、米国では多くのシンクタンクと政治的に活動する報道機関などによる世論誘導、更に、間接民主制による国家元首の選任であると思う。

日本政治に迷走があるとすれば、安倍内閣による官僚独裁の廃止への動き(補足6)が原因であるし、米国政治に迷走があるとすれば、一般市民の考えでトランプ大統領を選任したことが原因だろう。

範囲外への人権思想の適用(誤用)、わざと諸外国政府に統治能力の低下を画策するための剣として使われているに過ぎない。統治能力を欠く様に民主政治を押し付けたアラブの春のケースと同様、強国による思想撹乱である。そのように私は、一市民として考える。(17:40 編集)

 
補足:

1)ウィキペディアには死刑容認論として、社会契約説を最初に確立したトマス・ホッブズ、ジョン・ロックやカントなどの啓蒙思想家の考え、「三大人権(自然権)である生命権と自由権と財産権の社会契約の違反(自然権の侵害)に相対する懲罰・応報として死刑・懲役・罰金を提示している。死刑は殺人に対する社会契約説の合理的な帰結である」を記している。私はこの意見に概ね賛成である。ただ、「懲罰・広報として」という部分には反対である。社会との契約を破棄したもの対して、社会内の権威が懲罰を加える必要はない。懲罰は社会復帰可能な者のみに対する教育的行為だからである。死刑は、社会からの排除であり二度と社会復帰はありえないからである。つまり、人を襲った熊にたいする駆除と同様の行為である。

2)それは、捕鯨の問題と同じであり、世界が仮に非常にいい加減な分析の下であっても、強力に政治圧力をかけてくれば、それに沿う判断が必要となる場合もある。それは戦争を含んだ外交の問題である。日本にまともな軍備が無い以上、世界とまともには外交できない。米国のような軍事力があれば、IWCなどからは当然脱退すべきであり、日本古来の捕鯨文化があるとすれば、それを守るべきである。

3)テロリストを捕捉すれば、死刑廃止の国では死刑にしないかもしれない。その一方で、国家(を操っている者たちの)体制に有害と見なした者は、裁判などせずに暗殺している。つまり、人権を持ち出して死刑廃止を主張している人たちは、政治的企みで行っているに過ぎない。そのように明言できるのは、トランプ大統領もケネディー元大統領暗殺事件の資料公開をしなかったからである。この件、議論されないのは、強い圧力で封殺したからだろう。

4)捕捉1にウィキペディアの社会契約説を唱えた大家たちの議論を紹介した。このような議論があるにも関わらず、社会契約を放棄したものの人権をも守るべきだという思想を流布するのは、大きな政治的企みだからである。

5)民主政治の先進国である英国で、国民投票という民主的な政治手段を採用した後、国家が迷走をはじめた。国民投票で決定したように、EUからの脱退が未だになされていない。国民投票をやりなおすべきだという議論まで出る始末である。大衆迎合主義と民主主義の区別は、一般につけられないのだが、失敗したケースをラベルする目的で大衆迎合主義(ポピュリズム)という印字が大事に保存されている。

6)内閣に人事局を設け、官僚の人事を各省庁の事務次官から取り上げて、内閣の下に置いた。それは、内閣の暴走を可能とする危ない組織改編である。

この文章を書くに至った動機について:

20162月に“とくダネ”で放送された介護ヘルパーによる現金窃盗事件についてのブログに何度かコメントを貰った。https://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/42650671.html それらのコメントでは、介護ヘルパーに対する厳しい意見を頂いたのだが、私の記事の趣旨については必ずしも理解いただいていないという印象を持った。そこで、ここで再度それらのコメントに答えるという意味で、記事を書く。
 
この種の事件は、全国で数多く生じているものと考えられる。昨日貰ったコメントでも、「カメラがなければ年寄りの被害妄想と思われ信頼されない。認知症になったら身ぐるみ剥がされるリスクもありそうで、自分自身の将来も心配になった。逆に稼ぎたい人間は老人を食い物にも出来る時代かもしれないです。」という文章があった。
 
私も、既に老人と言われる年齢となり、近い将来介護を受ける可能性もあり他人事ではない。そこで、3年近く前に書いたブログ記事の真意を説明したい。
 
社会において、故意或いは偶発的なルール違反が一定の割合で発生するのは、社会の本質的性質である。そこで、ルール違反をどの様に罰するのが良いのか?ルール違反を厳罰に処罰すればするほど、住みやすい社会となるだろうか?一定以上の処罰は社会をむしろ不安定にしないか?そもそも、法は何の為に存在するのか?ルール違反を処罰する基準を考える場合、その様な疑問に先ず答えることが重要である。
 
1)社会の基本的構造:
社会と個人の問題を原点に戻って、そこから考える。我々は動物であり、動物はその生存と繁栄(繁殖)を利己的な存在とすることで維持してきた。(補足1)その一方、その利己的性質を一部返上し、他人同士で協力して社会をつくり、利己的に生きるよりも大きな環境の改善や種としての繁栄を実現した。その過程で出来た社会生活の考え方や様式と方法が、文化であり、文明である。
 
現在の社会システムは、無数とも言える役割(つまり仕事)を分業し、個人が受け持つことで成立している。そして社会は、それら仕事に要求される知識や能力などを考慮して、給与などの待遇を設定し、個人を適材適所に個人の意思に従って分配する。もし、犯罪がある一定の仕事に集中して生じているとすれば、その社会が設定する仕事の内容とそこにつける個人の待遇などに問題がある可能性が高い。
 
犯罪多発を理由に、その分野に生きる個人を攻撃排除するのは、その個人の資質に本質的欠陥がある場合に限るべきであり、それは社会の機能維持における最終的手段であるべきである。その社会の暗黙の基本的メカニズムを理解し、社会を運営しなければ、犯罪に会う人と犯罪を犯す人の両方を大量に生み出すことになるだけで、一向に社会の改善は実現しないことになる。そのような不幸な人を生み出すだけの社会は、政治の責任で改善しなければならない。
 
そこで常に問題になるのが、それぞれの分野における個人の貢献と評価に関する不平等である。社会を運営していく上で常に配慮しなければならないことは、社会はその本質として、個人との間で摩擦を生じるということである。その摩擦が蓄積拡大すれば、社会を破壊するポテンシャルとなる。
 
つまり、社会は常に個人の動物としての生存欲求を否定する方向の圧力を、法或いはルールで個人に加えていることで、正常に機能している。ある個人に対して、社会つまりその個人以外の全てが、その個人という動物の生存欲求を押さえつける力を常に加えているということである。別の場面では、別の個人がそのような圧力を社会から受けることになる。特定の場面では、ルール違反は厳罰に処するべきだと多くのその他の社会構成員は言うのだが、それは諸刃の剣を振るっていることを知るべきである。
 
圧力をかけるのは、動物の生存欲求に沿った行動であり、自然且つ簡単だからである。別の場面で、社会から圧力を受ける側となった時、場合によっては土下座して許しを請うこともある。その際、想像力がある人は、自分が嘗て犯罪的振る舞いをした個人を攻め立てたことを思い出すだろう。
 
そのような場面に遭遇しない人は幸せである。その幸せが、たまたま自分が高待遇で社会に受け入れられているだけかもしれないのである。その個と社会の摩擦の場面を想像する力がなければ、社会を維持し発展する知恵など生まれない。社会は常に個人による破壊ポテンシャルの発生により不安定に存在するのである。それが、社会と個人の基本的関係である。
 
2)想像力の欠如は自分で自分の首を締めることに繋がる:
経済的に豊かな人は、老人の介護などには就かないだろう。何故なら、あまりにも待遇が低く、仕事がきついからである。自分と家族の生活を維持するために、本意ではないがその仕事に就き、収入を得て生計を立てているのである。その立場に立つ想像力があれば、監視カメラを着けるのは当然の防御措置だとしても、数千円の窃盗事件で賠償の約束をして土下座する介護人を、警察に引き渡して当然だとは思わない筈である。
 
多くの犯罪を隠して存在するのが社会、特に日本型社会、である。それは、犯罪と処罰が不均衡であるという面を、そして敢えて犯罪者を生み出さなくても良いケースも多くあることを、昔の人は直感的に知っていたからである。人間には想像力があり、その程度のことは事を荒げる必要などないだろうという知恵も働いていたと思う。(補足2)
 
勿論、その一方で安易に私的に犯罪的行為をもみ消してしまうのは、社会の改善の機会を無くする危険性がある。現在でも、社会と個人の関わりにおいて本質的に境界線上を歩くことを要請された仕事も存在する。(補足3)その一つが訪問介護の仕事だろう。
 
前回記事を書いたときに、社会がイェローカードを示し損害賠償で済ませておけば、その人は社会により人生を破壊されないで済んだだろう。また社会もその他の仕事に移すだけで、その人を善良な市民として受け入れることが出来ただろうと感じたのである。
 
社会のルールは、個人の人生を破壊するために存在するのではない。むしろ、その逆である。多くの境界上(塀の上)を歩むことを要求されている個人を、社会が全て敵にまわせば、社会そのものも破壊されるだろう。レッドカードしか審判が持たないのでは、サッカーの試合が成立しないのと同様、社会も非常に住みにくいだろう。
 
3)二つの社会:
犯罪の原因を、個人の所為だけにするのも、社会の所為にするも両方とも問題である。それは、本当の犯人を逃してはいけないという意味である。日本のルールは、個人処罰のためだけにあるのではなく、社会構成員が互いに協力する体制を維持するためにある。つまり、ルール或いは法が、個人の行動規範としての役割だけを果たす様に、社会を構成する個人全てが努力をする必要がある。
 
日本文化の下、人々は善意を前提とする社会をつくり、それを維持する努力をしてきた。それは、道徳文化により事前に犯罪を防止する社会である。一方、世界の多くは、特に異文化が共存する社会では、悪意を前提とする社会であり、法により処罰することで犯罪を防止する。
 
前者、つまり日本の伝統的社会では、一旦犯罪者の烙印を押されると、それが軽微な犯罪によっても、その個人は社会で生きることが非常に困難になる。後者では、社会が正常な機能を保つために犯罪者という犠牲者を必要とするが、この場合は、しかしながら、犯罪者には更生のチャンスがより広く作られているのが普通である。
 
日本は、西欧型多文化共存型社会での社会と個人のあり方を徐々に採用しつつあるように思う。急激な変更には犠牲者が付き物となる。前回の投稿文では、そのような犠牲者の数を出来るだけ減らすべきだと言ったのである。
 
有効な手段として、一つ明白なのは、待遇改善である。給与面での改善は、必然的にその仕事に対する社会の目に変更を加える。その両方が、その仕事の待遇改善に役立ち、結果として犯罪率を減少させるだろう。更に、介護ロボットの導入が有効な手段である。しかし、決して外国人の受け入れではない。(補足4)異なった文化の下で育った人を大勢いれることは、社会と個人の軋轢が社会のあらゆるところに顕在化し、治安悪化に繋がるだろう。
 
GDPは増加するが、その多くは監視システム等の治安維持システム(セコムの株は上がるだろう)、訴訟に関する後ろ向き経費などとして計上されるだろう。そして、個人は一層貧しく不安な生活を強いられるだろう。入管法の改訂は、現在の政治家の殆どが無能だということを証明している。
 
補足:
1)それは、例えば戦場という極限状況に人を置けば、その本性が現れることを歴史で学ぶだろう。3年以上前になるが、次に引用の記事を読んで頂きたい。
2)昔は2-3世代が同居することが、日本の家庭の基本的形態だった。現在では、1-2世代の同居が基本である。その場合、60代以上の高齢者の知恵が次の世代に円滑に渡されない。所謂世間知らずが世間、つまり社会、を形成することになる。知恵は、社会の建前のみを表面的に教える学校教育では、伝達されない。
3)認知症になった老人と多額の現金が施錠なしの棚に置かれた部屋で、一人で介護する仕事は、恐ろしい仕事である。その他に非常にわかりやすい例は、ピンクトラップが仕掛けられた国の外交官の仕事なども、非常に恐ろしい。そのような“塀の上”を歩まなくても一定以上の報酬を得る人は幸せである。
4)外国人の受け入れは、この善意を伝統とした社会という日本の伝統文化を破壊するだろう。社会は、必然的に西欧型の契約社会と法による処罰で機能を維持する形に変えなくてはならない。
1)戦後レジームからの脱却は安倍総理が政権についた動機だと言われる。しかし、その宣言は、欧米から歴史修正主義として批判の対象になった。ヤルターポツダム体制からの脱却となれば、第二次大戦とその中の日本について詳細な歴史的評価をしなければならない。それもしないで、戦後国際レジームからの脱却と言えば、欧米から批判されるのは当然だろう。
 
日本中でも右派と一般に謂われている人の多くは、戦後レジームの中で改正すべき点として、現在の日本国憲法とそれに従ってできた日本国の骨組み、特に自衛軍の創設(自衛隊の改称)と日米安全保障条約の下での防衛体制整備などを考えているだろう。戦後国際レジームに抵触しないのなら、その範囲において改訂することは、既に未来志向の関係にある欧米から干渉される筋合いはない。しかし、東京裁判史観はおかしい(実際にはおかしいとしても)とか、首相も天皇も靖国参拝することは当然だと言いだせば、国際的非難だけでなく、国内からも批判が出るだろう。
 
最近ジョージ・ナッシュ氏が編集したフーバー大統領の回想録『Freedom Betrayed(裏切られた自由)』が刊行され、その日本語訳も出版されている。(補足1)私も、その解説本とも言える本(渡辺惣樹著、「誰が第二次大戦を起こしたのか」草思社)を読み、その感想をブログに書いた。
 
当然、日本独自にあの大戦とそこに至る歴史に関する体系的な評価を作り上げることは大事である。ただ、それが東京裁判史観と一致しない場合でも、今後の国際情勢とその中の日本にとって利益になるかどうかを考えた上でなければ、戦後レジームからの脱却などという宣言をすべきではない。それが単なる右翼と、現実主義&保守主義の区別だと思う。
 
仮に、上記国際的な歴史修正が行われたとしても、惨敗だった先の戦争を指揮した者の責任を明らかにしないままに、総理大臣以下国政担当者は靖国神社に参拝すべきではないと思う。なんとか、国立墓地を設立し、そこに戦死者を祀り、国民が自由に参拝できるようにすべきだと思う。
 
2)日本の停滞はどこにあるかと言えば、政治の貧困である。元外務省の佐藤優氏は、「日本の官僚たちは心の中で政治家などバカにしている」と躊躇なく話しているように、どう考えても政治家のレベルは非常に低い。
 
一方、戦後70年経ち、日本が国際社会の中で一応の存在感を持ち得ているのは、政治家が何もせずに米国追従路線をとったことと、その背景で日本が経済力をつけたこと、更に、霞ヶ関の官僚たちが一定のレベルにあったからだろう。しかし、戦後日本のレジームからの脱却となると、政治家としての能力が要求される。その壁に跳ね返されて元の自民党路線に戻った姿が、安倍総理の米国議会での演説だったと思う。その範囲の評価では、立派な演説だったと思う。
 
日本国憲法の改正も十分な準備が必要だが、現行憲法でも日本国には多くの解決すべき問題が残っている。それらは、①日本の国会議員が真に日本国民を代表するような選挙制度が確立されていないこと、②日本に三権分立の体制を確立していないこと、などである。例えば、最高裁が判断したように、集団的自衛権を持つ自衛隊(self defense force)が違憲でなければ、別に憲法を改正する必要はない。(補足2)
 
逆に、日本の裁判所が正常に機能していないとすれば、憲法など法律を整備しても何にもならない。日本の主権と、現在の国家体制においてそれを代表する元首をどう規定するのか、そのあたりの議論がなければどうにもならない。総理大臣が国家元首であるのなら、それは国民の意見が直接反映する選挙によらなければならない。
 
憲法改正=9条改正という類の憲法改正など、現時点では不要である。
 
3)先ず為すべきは、日本の国会議員を日本国民の真の代表とすることである。そのためには一票の格差を全廃すること、更に、小選挙区制を大選挙区制にすることの2点の改正が必要だろう。
 
国家機構が正常に機能するためには、国家機構が知的に成熟した国民の総意に基づく必要がある。知的でない国民が多数居たとした場合、或いは外国の利益を代表する一派が国民の中に混在しているとした場合、その一票が選挙結果に反映しない工夫が必要である。その一つが間接民主制である。(補足3)しかし、小選挙区制では選挙民と被選挙者との距離が近すぎて、地域の利益を超えた国家全体を考える人物が選ばれない可能性が高い。(補足4)
 
一方、全国区では極端な意見の人たちや、上記外国の利益を代表するような人たちも、強い組織を背景に数人の代表を国会に送ることが可能となる。それらの議員による妨害があれば、国会が正常に機能しなくなる。現状、日本の国会はそのような混乱の中にあるように思える。
 
それらを考えて、私は日本を1520区程度に分けて、そこに完全な人口比で、議員定数を割り当てるように選挙制度を改定すべきだと思う。更に、それを新たに地方行政の区分けとすれば、尚良いと思う。
 
戦後の経済発展や高学歴化により、田舎の知的な人物は大都会に移動することが多くなった。その結果、田舎の票は地域の利益を優先し、視野の狭い人物を国会に送る傾向にある。その結果、外国に影響された勢力や明治の勢力が今でも国会で力を維持している状況である。
 
最後に:
日本では人々は環境に自分を合わせようとする。その傾向は、神道の悪い面だろう。この辺で、日本人は自分に合わせるように、環境を変えるという風に考えるべきである。その風習が日本人をより積極的に、議論する国民にし、人と人の間の風通しも良くし、イジメやパワハラと言った公空間の改善も可能だろう。
 
補足:
 
1)フーバー元大統領の回顧録の要約版がネットに掲載されている:
 
2)日本の最高裁など司法関係者はまともに仕事をして居ないと思う。最高裁は、砂川判決のように行政に阿る判決を出す自己保身的裁判官に支配されている。安保合憲論における、「高度な政治性をもつ条約については、一見してきわめて明白に違憲無効と認められない限り、その内容について違憲かどうかの法的判断を下すことはできない」という最高裁の判決理由は、私には屁理屈に思える。何故なら、「極めて明白」とはどういう意味かさっぱりわからないからである。もちろん、国家元首の存在しない国では、或いは米国大統領が国家元首なら、そのようなことになるかもしれない。その場合は、そう明言すべきだ。
 
3)ブレグジットは不適当だから、国民投票をやり直すべきだという意見を、英国民の多数が持っているようである。その再投票は愚策であるとの議論が以下のサイトに書かれている。
国民投票で決めたことを実行せずに、再投票にかけるのは民主主義の否定である。それがわからない人が多くいるのが世界の現状である。
 
4)IWCからの脱退が当然であると話す自民党幹事長は、鯨食文化の残る太地町のある和歌山県の選出である。父子二代の県会議員を経て、自民党幹事長まで上り詰めた。現在の地位に相当する知性と実力があるかと言えば、Qである。