1)チャネル桜では、「日本に本当の国家主権はあるのか?」という番組を作り、youtubeで公開している。出席者は小堀桂一郎、加瀬英明、古森義久、馬淵睦夫、西岡力、室伏謙一、浜崎洋介の七氏である。1時間目までを聞いた範囲では、問題点を裾野から広く捉えていないと感じた。https://www.youtube.com/watch?v=e6Rivki3O9k
 
最初の各自の主張を簡単に述べる段階で、概ね以下の結論に達している。憲法9条第二項に「国の交戦権はこれを認めない」とある。また、国際ルールである主権国家体制の下では、戦争は外交の延長上にある。憲法の上記規定とこの国際ルールを並べれば、日本はまともに外交ができない国、つまり明確な国家主権を持たない国であることは明らかである。
 
一方、戦後から現在まで75年間、その憲法を守ろうとする日本国民の意思がある。つまり、憲法改正案が国会に未だ一度も出されていない。それらには、全ての出席者が同意しているようである。しかし、そこからの議論はあまり建設的ではないと感じた。
 
日本が国家としての体をなしていないと指摘することの他、その原因をもっぱら第二次大戦後のGHQの日本統治と日本のメディアに求めている。彼らが、日本国を骨抜きにした結果、このような体たらく日本が出来上がったのだというのである。そのような把握の結果として、小堀桂一郎氏らは骨抜きにされる前の日本を復活させることを考え、司会の水島社長も天皇を中心とした国家体制の復活を主張するのである。
 
過去の政治に何の反省もないのなら兎も角、あの戦争はやってはならない戦争であったことを承知しているのなら、その原因追求が先だと思う。それをしないで、憲法を改正して戦争のできる国にするというのは、少なくとも、日本に住む日本国籍の人たちの総意ではないだろう。上記2名の他も、憲法9条第二項の破棄と天皇元首制の復活という考えには反対意見は出なかった。

 

恐らく、比較的若い浜崎氏や室伏氏など、2、3名は、天皇元首制に意見があるだろう。もしそうなら、何故小堀氏が天皇制の復活を言った時、それは違うと反論を出さないのか?その通りだとも、それは違うとも言わない。この議論を避ける文化が、日本の最大の問題点だと私は思う。
 
2)過去の戦争は間違いであった。その間違いには理由がある。その理由を十分考えもしないで、現在の日本に国家主権がないから、過去の体制に戻るべきだというのは自殺行為である。
 
“明治維新”の当事者である薩長や岩倉具視など下級貴族たち(一世)の成した近代化は評価できるだろう。しかしその後、日本の国家体制に進化がなかったのが、第二次大戦での大敗に結びついたと私は思う。日本という国は、多くの指導者たちの模索と議論で、つまり自分の力で、徐々に変化する能力に欠ける国である。そのことに気づくべきだ。
 
それは、いまだにチャネル桜のこの三時間番組に、加瀬秀明やら小堀桂一郎といった高老齢の方々が、もっとも大きな権威で登場していることと相似的である。これは、米国ウェスティングハウス社を子会社化し、その結果東芝を倒産の危機に追い込んだ中心人物が、高齢であるにも関わらずその後日本郵政の社長に就任し、やはり海外企業の買収を指揮し巨額(4000億円)の損失を出す結果を招いたこととも、相似であると思う。何故、このようなことが日本で起こるのか? https://gendai.ismedia.jp/articles/-/51771
 
明治初期の改革には天皇の助けが必要だった。そこで、錦の御旗を偽造し、同盟諸藩の有力大名にまで暴力をチラつかせて、薩長の若手と京都の下級貴族らが結託して権力を掌握した。次の段階として、その天皇から乳離れする段階を、次の世代が達成すべきだったのだが、組織の健全な新陳代謝が行われなかった。
 
つまり、日本は、欧米諸国の東アジア進出の時代を、江戸時代の地方に育った優秀な人材を中央に集結することで乗り切ることができた。(補足1)そのために制定したのが大日本帝国憲法であった。しかし、世界が急激に変化するなかで、その憲法を改正してそれに適応することが出来なかった。それが、日本没落の原因だと思う。この番組の出席者は、その事に無頓着に昭和以降の議論をしている。
 
3)明治憲法の第3条「天皇は神聖にして侵すべからず」や第11条「天皇は陸海軍を統帥す」などは、それらは明治維新の時に天皇を利用して、国家を統一する必要性から導入されたものだろう。(補足2)昭和天皇は、実際には自ら国家の政治において指揮をとったわけではない。しかし、上記2条文などを保持する限り、天皇の権力の不正な利用を狙う連中が出てくるのは当然だろう。(226事件や軍の暴走など)
 
軍の暴走は権力の横取りであり、それを防止できなかったのは政府中枢が無能だったからである。その原因究明とそれに基づく政治制度改革などを疎かにして、天皇を国家元首にする憲法改訂は日本の自殺行為だと思う。つまり、憲法改正よりも、拉致問題よりも、何よりも優先すべき問題は、政府に如何にして優秀な人材を集めるかを考え、その改革を急ぎすることである。
 
その問題のまとまった議論は今後に残すが、何度かこのブログでも書いたことを繰り返す。選挙区を道州制にして、一票の格差を完全撤廃する。この選挙制度改革は、地方の利権と中央政府の政治との間に距離をとることを主目的とする。更に、中央政府の機能を外交や治安などの限られた分野に限る。道州政府が成長すれば、互いに切磋琢磨することで、日本は活気付くだろうと思う。今回はこの点の指摘だけにする。
 
最後に一言だけ追加したい。それは、上記問題等いろんな問題を考えた時、何時も「日本には議論の文化がない」という基本的問題にたどり着く。其の議論なき文化の国、閉鎖的な組織の国から、議論のある開かれた組織の国への脱皮が如何にして可能になるかを考えるべきである。
 
日本においては、凡ゆる機関の中枢は閉鎖空間を成している。それら組織の人事は、万世一系の天皇家と同じように、人脈で継承されていく。そこには仕事の評価とその人事への反映などの組織改革のメカニズムは殆ど働かない。それが現代の成長なき日本の姿でもあると思う。これが上に述べた東芝の他、シャープ、日産自動車などの没落の図式と同じだろう。(補足3)
 
議論のない文化圏では、人を外面(学歴、家柄、人脈)で評価し、内面の能力や仕事上の実績を積極的には評価しない(評価できない)。それが改まらない理由は、内面を評価するには、対話と議論が必要であり、そして、対話と議論は評価する側も評価される危険性があるからである。外面を評価されて中枢に座る連中が、そのシステムになれば危険に晒されるのである。
 
補足:
1)江戸時代は封建制度という地方分権の政治制度をとっていた。その中で自立心が強かったのが、薩摩や長州という外様大名の国だった。薩長は生き残りの方法として、京都の貴族との連携もしっかりとっていた。薩摩と島津家、長州と三条家などである。この地方分権的幕藩体制を遅れた制度だとして中央集権化したのが明治維新と現在の日本である。21世紀は、逆に地方分権を真面目に考える時であり、その場合は移動範囲が大きく取れる時代なので道州制が適している。道州の優れた人材で中央政府を作るべきだと思う。
 
2)明治憲法の第3条に「天皇は神聖にして侵すべからず」や第11条「天皇は陸海軍を統帥す」などの条項(絶対君主的規定)は、暴走する軍に利用されたが、それらは明治維新の時に天皇を利用して、国家を統一する必要性から導入されたものである。江戸時代、明らかに日本の統治者は江戸徳川であったので、その幻影を払拭するために、偽造した錦の御旗とともにこのような規定が必要だったのだろう。
 
3)東芝の没落の大きな原因は、米国ウェスティングハウス社の買収の失敗であった。その時の失敗の責任者である筈の西室泰三氏は、何故か日本郵政の社長となったのか?その西室氏率いる日本郵政がオーストラリアのトール・ホールディングスの買収により、4000億円という巨額損失を計上する結果となった。その責任はうやむやにされたという。
米国のアポロ宇宙船が、アームストロング船長らを月に送り、月表面に星条旗を立ててその写真を撮ったことになっている。その後、彼らは月軌道上の母船に帰り、そして無事地球に帰還したというのである。
 
私はブログ記事で、科学的証拠と簡単な力学的考察を示し、それは嘘だと論理的に説明した。一番重要なポイントは、宇宙飛行士がくっきりと"月面上に残した靴あと”である。月面には、水など表面張力の大きな液体がない。真空中に砂が堆積した月面で、あの様なクッキリとした靴跡などできるわけがないのだ。
イメージ 1
(くっきりとした靴跡が水の表面張力でできるメカニズム:https://rcbyspinmanipulation.blogspot.com/2018/07/blog-post_11.html
 
その記事投稿後一年ほどして、現役のNASAの宇宙飛行士が、現在では月に行く技術はないと語ったのだ。その動画が何箇所かにアップされているので、ぜひ聞いてもらいたい。
 
これらの動画の中で、現職の飛行士のDon Pettit氏が「嘗てあった月旅行の技術は、既に失われてしまった」と語っている。そんな大事な技術を継承していない筈はない。もともと無かったのだ。
 
その言い方は、NASAおよび米国政府から仕返しされないための工夫だろう。つまり、この"月旅行の嘘"を包みこむごまかしは、ちょっと知性を注げば、溶けてしまうオブラートのようなものである。それを承知で、Pettit氏は言っているのだ。 
 
アメリカは技術開発とその維持管理を殊の外大事にする国家である。例えば中国との知的所有権を巡る争いは、現在係争中の問題である。そのアメリカが、大事な月旅行の技術を失う筈がない。もともと無かったのだ。
 
アポロ計画は、当時の大統領ケネディーがソ連と対抗するために、国家の威信を掛けて開発を号令した軍事研究開発である。それを無くす筈など絶対にない。
 
Pettit氏が、動画最後の場面で火星を対象にした宇宙開発の話を持ち出している。それは問題発覚を先送りする、NASAの時間稼ぎに配慮したのだろう。 
(編集あり、18:45)
1)1974年3月、旧日本軍将校の小野田寛郎氏がルバング島ジャングルから約30年ぶりに日本に帰還し、マスコミにより大々的に報道された。敗戦から29年近く経過しての投降帰国は、日本国内では熱烈な歓迎となった。しかし、小野田氏の無事の母国復帰を複雑な気持ち、もっと正確に言うと、怒りをもって知った人はルバング島に多かっただろう。
 
何故なら、小野田氏らのグループは潜伏中に多数の人を銃撃し、そのうち30人を殺したからである。この小野田氏の帰還劇を評価する際に重要なこの出来事は、当時の厚生省により隠され、国民に広く知られることはなかった。当局は、多くの国民にはその事実を受け止める準備がなされていないと考えたのだろう。
 
一昨年、NHKが新たに公開された外交資料を元に、小野田氏のケースを考察する番組を作った。ETV特集「小野田元少尉の帰還:極秘文書が語る日比外交」(2017年3月4日(土) 午後11時00分(90分) )である。https://www.youtube.com/watch?v=b5b98Wm5kiI (NHKは著作権を持ち出して、youtubeに消去させるようなことはしないでもらいたい。)
 
そこでは客観的事実と小野田氏の証言をそのまま用いて番組を作っている。しかし、その解釈を良としないブロガーが、小野田氏および日本政府の姿勢を批判する記事を書いた。私は、その記事にコメントを書いた。その最後の文章を紹介する:
 
平和な情況下、つまり、全ての対人行為が法的に解決可能な環境下にある方たちに、極限状況とその下にある人を非難する資格などない。勿論、議論する自由はある。
 
コメントを書いたものの、その時はこの件について、新聞記事の表題以上の知識はほとんどなかった。今、上記NHKの番組とそのブロガーの記事を読み、ほぼ理解できたので私の推理をブログ記事として書く。
 
上記ブロガーとは、ヤフーブログで活躍中のハンドル名chuka氏である。その記事とは以下のもの:https://blogs.yahoo.co.jp/kiko10da/folder/593269.html
更に、関連する記事として、
 
このブログ記事では、小野田氏のルバング島での30年間をわかりやすく箇条書きに整理している。恐らく、小野田氏の著書「たった一人の30年戦争」、及び、そのゴーストライターの津田信氏の本「幻想の英雄」などを参照し整理したのだろう。その一部を(補足1)に紹介する。詳細は、直接上に紹介のサイトを訪問していただきたい。
 
上述のようにそのブログ記事では、小野田氏および日本政府の姿勢を強く批判している。そして、日本政府が寄付した3億円の迷惑料をマルコス大統領への賄賂だとしている。私の推理では、それらは全く間違いである。以下にその理由として、主にNHKの番組で与えられた情報を引用して説明する。
 
2)文章が長くなるのを避けるため、番組の内容の概略は一部を除いて紹介しない。小野田氏や鈴木氏などの「氏」は、引用時には省略する。
 
先ず、上記のNHKの番組から、救出の最後の場面を簡単に紹介する。
 
小野田がグアム島から帰還した1972年、小野田の唯一の部下であった小塚金七がフィリピン警察軍により撃たれ死亡する。事件後、厚生省は小野田の兄姉、同期生ら大勢を引き連れた捜索隊を現地に派遣する。捜索は翌1973年4月まで三回にわたって行われたが、小野田は最後まで姿を現さなかった。(ウィキペディアの「小野田寛郎」の項にも書かれている。)
 
その後、鈴木紀夫が単身島に渡り、小野田を一人で捜索する。鈴木は、日本人が一人で捜索すれば、小野田の警戒心が和らぐ筈だと考えていた。(補足2)山中にテントを張り、小野田が現れるのを待った。
 
テントを見つけた小野田は、立ち上がった鈴木に銃を向けた。鈴木は、「日本人だ」と言ったので、「自分は小野田だ」と返答した。その時、鈴木に小野田は、「谷口少佐の命令があれば山を出る」と約束する。
 
この場面と情況が、以下の推理を思いつく大きなヒントになった。小野田氏の本心を以下のように推理する。
 
小野田氏は、既に戦争が終わっていることを大分前に知っていただろう。最初の捜索隊がルバング島に行った時(1952年)には、敵の謀略の可能性が高いと思っただろうが、その数年後競馬放送を聞いたりしていた頃には、戦争は終わっているが、捜索隊に身を任せることは危険であると思うようになっていた可能性が高い。つまり、既に何人も島民を殺していたので、無事帰還が叶うとおもわなかったと推測する。(補足3)
 
更に、1973年からの捜索の時には、殺されずに投降することは可能だと思うに至ったと、私は推測する。しかし、その頃には、自分はどのような顔をして日本に帰れば良いのか分からなくなっていたと思う。グアム島から帰還した横井庄一氏は、自給自足で生活をし、発見されても住民に殺される危険性は小さかった。そして、帰還の際には「恥ずかしながら、帰って参りました」という言葉で、なんとか自分の心理と折り合いがついた。
 
しかし、小野田氏の場合は、情況が全く異なる。戦争後の数年間は、戦争は続いていると思ったとしても不思議ではない。その戦場諜報員としての活動中に、島民を何人も殺している。
 
小野田氏の場合、戦争が終わり自分も投降すれば帰国できる可能性が高いと気が付いた時には、「恥ずかしながら」では帰国出来なくなっていた。それまで、自分達が国家の為(と考え)、任務として行って来たこと、更に、その後は自分達が生存のために行って来たこと、それらの行為は平穏な世界の物差しでは重罪であり、自分たちは重罪人に該当するのである。
 
大規模捜索隊に投降する場合には、その瞬間に、重罪人の顔から、一人の普通の1945年8月の旧陸軍少尉の顔にならなければならない。それは不可能である。
 
しかし、一人で近くにテントを張っていた鈴木紀夫氏とは、全く何の前提条件もなく話すことができた。その結果、20年ほどの自分たちの活動を完全否定することなく、当時の日本に帰国したときの自分の姿に接続する方法を探すことができた。(補足4)それが、上官の命令があれば投降し帰国するということである。
 
その儀式の重要性を理解できない人は多いだろう。しかし、上官命令による投降の儀式は、小野田氏にとって十分に命がけの儀式だったと私は思う。(補足5)更に、マルコス大統領によるマラカニアン宮殿での盛大な投降式は、フィリピンでの犯罪を許すための儀式であった。
 
これらの二つの儀式に小野田氏は救われたのである。上官の命令解除による投降は、軍人としての本来の姿ではある。平穏な世界に慣れた人には、敗走28年の後のこれら儀式は取って付けた欺瞞のような印象を持つだろう。しかし、必死で生きた28年は長くもあり、一瞬のようでもある。それが人の時間の特徴だと私は思う。
 
小野田氏が、その道を選ぶことができたのは、そして、それによりマルコス大統領の深い考えを導きだしたのは、神の配慮なのかもしれない。
 
その結果、小野田氏は英雄として日本に迎えられた。NHKの放送にあるように、帰国後の予定は政府により決められた。小野田氏が一番望んでいた戦友の墓参りは後ろに廻されてしまった。一人の諜報活動を任務とする少尉に過ぎない小野田氏にとって、その英雄としての待遇は心地よいものではなかった。それで、一年後のブラジルに移住するのである。
 
以上が私の推理である。何か勘違いや間違いがあれば指摘してほしい。最後に、一言追加したい。小野田氏に殺された30人を含めて、怪我などの被害を受けたルバング島の100人の方々への補償が、日本政府により(フィリピン政府の協力を得て)なされなかったことも残念である。この問題は、「外交問題としての小野田氏帰還」を書く場合には、触れたい。
 
追補:
1)(4月20日午前7時)小野田氏は自分の行動を正当化するために多くの嘘をついただろう。しかし、戦争が終わったと気づいた時、投降は命がけだったのだろう。1949年に小野田グループから逃げた赤津元一等兵が生きて日本に帰還したことを知った時、自分のミスに気付いた筈である。つまり、赤津氏の判断が正しかったのである。小野田の判断ミスの結果として、島田氏、小塚氏の部下2名が射殺されてしまう。おそらく、彼らの遺族の方々は手放しで小野田氏の日本帰還を喜べない筈である。その意味では、重罪を背負って生きていたのだろう。
 
その様な小野田氏を批判する気持ちは十分わかるのだが、その資格は多くの人にはないだろう。無条件でその資格を持っているのは3名のグループ構成員たちだけだろう。気になるのが、その一人赤津勇一氏が日本に帰って国会で証言し、且つ、1972年の捜索に加わりながら、ほとんど日本国内で発言の機会が与えられなかったことである。その点について、何か明らかになれば、私も小野田批判側(同時に日本政府批判側だろう)に廻る可能性がある。
参考文献の追加:斎藤充功著、「小野田寛郎は29年間、ルバング島で何をしていたのか」(学研パブリッシング 2015)(20日の追補)
 
2)上記の件についての秀逸なブログ記事を見つけました。この記事は私の上記推論を支持していると思います。「実録小野田少尉② 赤津勇一一等兵 消された存在」です。 https://blogs.yahoo.co.jp/phuchan_n/18243192.html
 
(一部編集、補足4と追補2の追加;21日早朝)
 
補足:
1)小野田氏の残留兵としての28年:
小野田グループ4名は、1945年には投降勧告のビラを見ている。12月には2度目のビラに、山下奉文名による降伏命令をみる。
1946年2月には、拡声器により日本語で投降を呼びかけに応じて、3月下旬までに日本兵41名が投降している。
1949年に小野田グループの赤津一等兵が投降した。そこで小野田、島田、小塚の3人が未だ潜伏中であることがわかる。
1952年(この年、フィリピンとの賠償交渉が始まった)フィリピン空軍の飛行機に乗って島の上空を旋回し、拡声器で元陸軍中佐が呼びかける。3名の家族から託された手紙や写真を載せたビラをまいた。
辻豊朝日新聞記者がフィリピン軍の協力で島に入って懸命に呼びかけた。日本の歌を歌い、上半身裸になって「この白い肌を見てくれ。日本から来た日本人だ」と叫んだが、小野田はそのすぐそばにいて見ていたが無視。
1954年5月7日 共産系反政府ゲリラ討伐の演習をしていたフィリピン軍レンジャー部隊に、小野田グループ3人が部隊に発砲。応戦したレンジャー部隊の弾にあたり、島田伍長が即死。小野田、小塚の二人は逃亡。
島田伍長の遺体確認のために厚生省の係官と小野田少尉の長兄、小塚一等兵の弟が島に入り、呼びかけや、ビラ撒を行ったが誰も出てこなかった。
1959年小野田敏郎(寛郎の長兄・医師)、小塚福治(実弟)らを含む救出隊が島内で徹底的な捜索を開始。しかし、二人は現れなかった。
同年11月 日本政府、フィリピン政府が共同で「小野田元少尉、小塚元一等兵はすでに死亡したものと認め、今後は日本兵が現れたという情報があっても一切取り上げない」と表明。
1972年1月横井庄一氏がグアム島から帰還。
・ 同年の10月 小塚金七氏がフィリピン警察軍により撃たれ死亡する。警察軍出動の原因は、小野田・小塚が収穫したばかりの陸稲に火をつけたことだという。
 
これらは抜粋であるので、最初に引用のサイトのリストは、ウイキペディアの記述やNHKで放送された番組などよりは相当詳しい。
 
2)厚生省の組織した捜索隊は、陸軍中野学校で諜報員として教育された小野田氏を、スピーカーと肉親による日本語の呼びかけを大々的に行うという、単純な発想で救出作戦を立てた。それは、小野田氏を救出する為だろうが、救出作戦を大々的に実行すること自体が目的のようにも思える。一方、鈴木青年は、小野田氏の心理を考えて捜索方法を考え実行した。似たケースが昨年夏にあった。山口県周防大島町で行方不明になった2歳前の子供を、地元消防は350人規模で捜索したが発見出来なかった。それを一人のボランティアが、子供の心理を考えて方向を決めて捜索した結果、20分ほどで発見したのである。
 
3)NHKの番組によると、小野田氏がルバング島を再訪した際、そのルートを島民関係者と相談して決めた。そこで当時30代だった父親を殺された人の地域の訪問を打診されたその人の長男は、NHKの取材者に「自分には小野田を見た時、自制する自信がなかったので、断った」と発言している。
 
4)それは平時の感覚では、非常に狡猾&卑怯なやり方である。
 
5)映画「レミゼラブル」のラストシーンである。教会で強盗を働いたジャンバルジャンを何十年間追いかけるのが、ジャベール警部のライフワークとなった。しかし、ジャベール警部はその犯行の際、教会の神父がジャンバルジャンを許したことを十分考えなかった。30年ほどの捜査だったと思うが、最後にジャンバルジャンに手錠をかけることは出来た。その際、ジャンバルジャンとの会話の後、これまで確信できなかったが、それが意味のないことだと明確に知る。数十年の自分の仕事が空虚になったジャベール警部は、ジャンバルジャンの手錠を外して、自分自身は運河に身を投げることになった。