ヤフーブログから引っ越した記念に、丸山議員なみの愚かな文章を書こうと思う。非難轟々になれば、ブログをやめようと思う。

 

1)恐らく日本での特殊な現象だろう。テレビのニュース番組に占める個人的悲劇の割合が極めて高い。新聞でも、その種の記事とローカルな政治や経済の話題で埋められている。BBCのニュース欄とは大違いだ。

 

今朝の7時のNHKニュースでは、今後予想される豪雨などの天気に関するニュースに続いて放送されたのは、2歳児が親に殺されたニュースや、老人の運転する車が暴走した事故などである。その悲劇的場面を微に入り細に渡って、動画や静画を駆使して放送するのである。

 

そのような放送が一体一般人に何のニュース価値があるのか? 日本国民にとっては、ずっと後で放送された中露接近の方が遥かに重要なニュースである。それについては別途文章にしたいが、この中露の動きは、日本の国家としての存立を考える上で最重要の出来事である。それを表面の薄皮一枚の報道で済ませるニュース番組など、見なくて良い。NHKなど民間放送にし、視聴料制度を廃止すべきだ。(補足1)

 

人は社会的動物として誕生して以来、他人を自分と所属社会との関連で考えるようになった。その結果、社会の中で大きな話題となった第三者を、集団で評価したり虐待したりするようになった。前者は、英雄を群れ全体で褒め称える行動として、後者は集団で惨めな、或いは、悪辣な個人を虐める性質として、ヒトの特別の性質として成立した。もちろん、社会生活をする動物には、人ほどでないにしても、これらの性質の片鱗が見えるだろう。

 

更に、そこからの延長としてだと思うのだが、社会全体を考えるほどの論理的言葉を持たない大多数の一般人に、社会のリーダーの行為に付和雷同する性質が備わったと思う。つまり、組織の下で動く大衆の性質の獲得である。その典型的な例は、同じ番組で放送されていた丸山穂高議員に辞任を要求する決議に付和雷同するその他議員(大衆議員)である。

(補足2)

 

2)これら大衆感情に100%迎合しているのが、日本の放送局やマスコミである。それを揶揄して「マスゴミ」という言葉もできている。そんな批判は、高給取りのマスコミ人には”道真に東風”ではなく、馬耳東風だろう。(補足3)

 

西欧政治文化の中で、マスコミは重要な役割を担っている。一般市民と政府の間にあって、政治に対する市民のフィードバックを仲介する機能を果たさなければならない。市民にその機能を利用する動き(国政論議)がないのなら、マスコミが政治的に堕落するのは必然かもしれないのだが。

 

公共放送を自認し、視聴料を税金のように集めるNHKも、上記のように堕落の例外ではない。NHKがこの為体(ていたらく)では、日本に将来はないだろう。その所為かどうかは兎も角、何もしないか猿真似しかできない人が、社会の重要な位置に多く居座っている。(補足4)

 

この国は危ない、逃げた方が得だと考え、既にこの国脱出している人が、特に知的な層に多い。どうもそのような考え方をする人は日本国民だけではないようだ。

 

その本質的原因は、西欧の市民文化と異なった文化のエリアに、西欧的政治システムを持ち込んだ結果なのだろう。東アジア全体に言えることだと思うが、ギリシャやローマの時代からの政治文化を導入しても、100年ほどでは上手く働かないのは当然かもしれない。近代政治制度やその背後にある法治主義など、東アジア諸国はマスターしていないのである。(午前11時40 編集)

 

補足:

 

1)NHKに視聴料を支払う義務を定めているのは、放送法である。何もしない国家だから、この放送法もそうは簡単には改正されないだろう。

以下、位置的にふさわしくないのだが、引っ越した際の挨拶がわりに現行憲法に対する筆者の考えを書いておく。

 

憲法前文に、「日本国民は、①恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、②平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」とある。その精神から、憲法9条に「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」と定めている。念願と信頼を元に決意し、それをそのまま憲法にして国家を縛るという宣言である。「人間の優しさを念願し、生物間の公正なる関係を信頼し、従順なる家畜とならんことをここに決意した」と、牛や豚が宣言するのに等しい。牛や豚もこれほどアホではあるまい。

 

2)北方領土へのビザなし交流訪問団に同行していた丸山議員が、11日の夜、国後島の宿舎で酒に酔い、元島民の団長に「戦争でこの島を取り返すのは賛成ですか、反対ですか」と質問したことを非難された。それ以外の小さいことは、その非難に人格攻撃を付け足し嵩上げするためのものである。

その疑問文は、「何の為のビザなし交流団なのかわからない。旧島民のあなた(訪問団の団長)は島を取り戻すことを目的に参加しているとしたら、それは無理ですよ」というメッセージである。日露問題は、もっと将来を幅広い角度で見て考えるべきであると言いたいのだと思う。もし、そうなら私は丸山議員のこの発言は、理解できる。

https://rcbyspinmanipulation.blogspot.com/2019/05/blog-post_15.html

 

3)道真は学問の神様と言われる。その東風を感じて歌を読む道真と、何も感じない馬との差に着目して、四字熟語の”道真東風”を作ったということ。下らない冗談です。

 

4)上記丸山議員の非難決議に反対や棄権をした国会議員はほとんどいない。ただ一人小泉進次郎氏が棄権したのみである。堂々と反対意見を述べ、反対票を入れるほどの人物ではないのが残念である。

1)前回ブログで、数日前川崎市で児童等20名を殺傷し、その後自殺した50代の男性に対し、多くの人が鬱憤を晴らすかのように「死ぬなら一人で死ね!」と言いたいと、テレビやネットで発言した。この発言に対し、多くの教育評論家などが批判しているが、テレビ朝日が一般人に対してアンケート調査した結果では、その発言に48%の人が肯定的であったという。反対は30数パーセントだった。(63日朝の羽島モーニングショー)
 

一方、昨日朝のフジテレビ「THE PRIME」(日曜前730)にゲスト出演した橋本徹氏は、「自殺に悩んでいる人をしっかり社会が支えていきますというのは当然のこと」と前置きし、「やむにやまれず自分の命を断つときは、他人を犠牲にしてはならない。ちょっと言いすぎかも分からないけど、死に方というところを教育することが、僕は重要だと思う」(補足1)と述べた。http://news.livedoor.com/article/detail/16554498/

 

これら全ての意見や調査結果は、観察する角度を調節すれば、全て納得のいくものである。何故なら、それぞれが異なる前提の下で喋っているからである。つまり、これらの議論は噛み合っていない。

 

2)どのような発言でも、「誰が、誰に、何処で何時、何の目的(何故)で、どのように言うか」という5W1hを先ず明らかにし、その上で評価すべきである。しかし、ここ数日の議論のなかで、発言の5W1Hに明確に言及したものはほとんどなかったと思う。

 

例えば、あの事件の防止を目的にその様な言葉を事前に犯人に向かって言うのなら、それは一定の意味のある発言だろう。勿論、逆効果かもしれないが、目的と発言の間には明確な関係がある。しかし、あの事件が起こったのちに、今後類似の事件を防止することを考える段階での、「死ぬのなら一人で死ね!」的な発言は、その目的放棄の宣言になる。これが前回、その種の発言をした立川志らく氏を批判した理由である。

 

もし、今後類似の事件を防止するのが目的の議論なら、もっと前段階、例えば背景にある「引きこもり」が生じる原因やその対策の話に、長時間費すことになるだろう。

 

つまり、上記「死ぬのなら一人で死ね!」とテレビなどで言う人は、単に被害者側の親族の側にたち、自殺した岩崎という人を足蹴にしているに過ぎない。あとから現場に来て、犯人のいじめ(逆襲)に加わっただけである。それは、類似の状況にあるかもしれない多くの人に対して、幻想の中で痛みを生じさせ、類似の事件の発生を促すことになるだろう。

 

一方、犯人の岩崎に向かってば「死ぬのなら一人で死ねよ」という場面の夢を見たひとが多かったかもしれない。それは全く非難されることではなく、極当たり前のことである。人に話す場面において、言葉は人と人が接触する人格の外面でのやりとりの道具であり、人格内部の思いの表現とは別だからである。

 

繰り返しになるが、このようなトゲトゲした言葉は、正当な戦いの際に自陣を鼓舞する目的で用いるのは良いが、戦うわけには行かない同胞や戦っては損をする相手に対して、使うのは賢明な行為ではない。

 

自分の内部の表現である思考や論文における言葉の使い方と、人と人の連絡の時に使う言葉の使い方は自ずと異なる。教育すべきは、5W1Hを考えた多様な言葉の使い方である。思考には思考の、依頼には依頼の、事実の解明には事実解明の、それぞれ言葉の使い方があるのだ。

 

因みに、政治家の発言で例をあげる。そのような言葉使い方を知らなかったのが、丸山穂高議員だろう。一方、言葉の使い方をよく知っている人として、トランプ米国大統領であげられる。(補足2)政治家としての優秀さには(比較することは失礼だが)、当然のことだが、大差がある。

 

補足:

1)「自分が死ぬ時、他人を巻き添えにしてはならない」と教育するべきだと、橋下徹氏が発言したのだが、その趣旨は明確でない。深く考えての発言ではないだろう。事件の犯人岩崎が多くの子供を巻き添えにしたのは、社会を敵と定めたからである。自分を社会の一員であると考えている人が病苦か何かで死ぬとき、社会の大事な一員を巻き添えにすることを考える筈がない。

2)文在寅韓国大統領が、トランプ大統領の先月の日本訪問の際に、「ちょっとでも立ち寄ってほしい」と、トランプ大統領に電話会談で依頼した。トランプは、その気がないのだが、その際文大統領の言葉に対して「興味ある提案だ」と言ったのである。
 
1)川崎市の名門小学校の児童送迎バスを50代の男が襲い、合わせて19人が殺傷された。児童らに切りつけた男(岩崎)は、現場で自殺した。この事件で殺された小学校6年性の女児の父親の、苦しい胸の内を語る姿をテレビで見て、日本中の人々は怒り、悲しみ、そして苦しんだ。528日の朝の事件である。
 
その衝撃の中で出たのが、有名人立川志らくの表題の発言、「死にたいなら一人で死んでくれよって、そういう人は。」(528日テレビ番組ひるおび!)であった。志らく師匠は、その後発言に対して弁明を行ったが、それは多くの方の反論があったからだろう。
 
代表的な意見で簡単にアクセスできるものを一つ紹介する。教育評論家の尾木直樹氏は、ブログ記事(5 30日)で、「出来るだけこの種の犯罪を少なくするために、犯人と似た孤立状態にある人間を連鎖的に同じ類の事件へ導かないように、“どうせ自殺が目的なら、他人を巻き込まないで1人で自殺してくれ”的な発言は止めることが大事だ」と書いている。https://ameblo.jp/oginaoki/entry-12464871443.html(補足1)
 
尾木氏は加えて、被害者やその家族へのメンタルケアの大事さ、更に、防犯意識を強めるとともに、人を孤立させない社会的サポート体制をつよめることが大事だと指摘している。
 
立川志らく氏は29日、自身のツイッターを更新して、「学校に行こうとしていた子供の命を奪った悪魔に対し、子供を巻き込むな!ひとりで死んでくれ!の言葉は普通の人間の感情だ。この怒りをどこにぶつければいい!この言葉が次の悪魔を産むから言うな?被害者の前で言えるのか。何故悪魔の立場になって考えないといけないんだ?でもそれが真実なら謝ります」と記した。
 
この文章を見る限り、何故「死ぬのなら一人で死ね」という言葉をテレビ電波で流すのは良くないと多くの人が言うのか、彼はわかっていない。下線部の表現が示すように、彼は社会の中に悪魔と自分たちという分断線を持ち込んでいる。
 
志らくは子供の命を奪った犯人を悪魔と呼び、自分を善人に区分けして、「何故悪魔の立場になってかんがえないといけないんだ?」と書いている。知的な人なら、何が犯人を“悪魔”にしたのか?と発言の前に考えるだろうし、上記志らくの発言を聞いたのなら、志らくは未来永劫“悪魔”にはならないと一人で決めつけているだけではないのか?と考えるだろう。(補足2)
 
2)この記事と関連して、「誰が罪を償うのか?容疑者死亡の川崎殺傷事件。。。」と題する記事が“めざましテレビ”の記事として掲載されている。その文章は、“容疑者死亡のまま、裁判は行われないだろうし、賠償要求も不可能だろう”という内容である。https://www.fnn.jp/posts/00046551HDK
 
注目されるのは、一般からのコメントである。
 
ある人(みかんねこ)は、犯人は悪いとしながら、子供時代の犯人について当時同級生だった男の人が話す場面を印象深く紹介している。“喧嘩の時、「捨てられっ子」などと酷い言葉を浴びせられても、「その通りだよ。」と言い返す「ふてぶてしい態度だった」”と上から目線で彼を紹介していたと。
 
更にno nameと名乗る人は、次のように書き込んでいる。“まず池袋の飯塚様は無実です。新車も購入予定で何の問題もないです。登戸の岩崎(犯人の姓)の件は動機以外解決済みでは?”
 
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善と悪は一つの社会と言える空間の中でのみ不動の概念である。しかし、社会が二つに分断されれば、ある行為に対して善悪のラベルが貼れなくなる場合が生じる。更に、その二つの分断が明確になり、二つの部分社会が敵対関係になれば、片方での善の行為はもう一方からは悪の行為となる。
 
つまり、社会の分断あるいは社会から個人の分断が、このような悲劇を生むことになる。この分断される部分が個人の領域なら、今回のようなテロリズムを産む。その社会から撥ね退けられた者たちの間に連携が生じると、一気に社会不安が強く大きくなる。最後は内戦まで繋がる。
 
日本において、現在社会の分断は、貧富の差の拡大が進むのと同時進行的に、様々な形で進んでいる。その一つは3年ほど前に話題になった「保育園落ちた 日本死ね」という書き込みが象徴している。その「日本死ね」は、自分たちを苦労する側と考え、日本本体から分離しつつあると感じたことへの攻撃的告白である。https://haken.rikunabi.com/discovery/article/495/(補足3)
 
繰り返すが、出来るだけ社会に、自分たちは差別されたマイノリティーであるという意識、あるいはもっと極端に、「自分は社会のハグレものである。社会は自分にとって敵でしかない」などという分断意識を持つ人の数を減少させる工夫が必要である。
 
もちろん、そのような人はゼロにはならない。従って、今回のような事件は常に起こり得る。我々ができることは、その当事者にならないように工夫することと、社会にそのような種ができるだけ少なくするような工夫をすることである。その工夫を放棄した言葉が、「死にたい奴は一人で死ね。他人を巻き込むな」という類の発言である。
 
 
補足:
1)立川氏を29日のツイッターのような意見に導いたのは、それまでになされたこれと同種の発言だろうと考え、時間的に逆転したのだが紹介した。
2)悪魔と普通の人間と言う風に、社会の人を二つのグループに分断している。悪魔なら、子供を殺すことは悪魔連中に賞賛されるだろう。一方、尾木氏は、今後犯人となるかもしれないと現状考えられる人たちも、我々との仲間意識に目覚めてもらい、そのような危険な領域からこちら側にもっと来てもらおうと言っているのだ。
3)この発言は、その主のこの時の心理を反映している。つまり、まだ日本社会の中でしっかりと助けてもらいたいという気持ちで、なされた攻撃的発言である。もし、完全に日本社会から切り離されたと知る(信じる)なら、そのような言葉は言わずに、黙って今回のように攻撃するだろう。