私は、井上陽水は世界的なシンガー・ソング・ライターだと思っている。彼の作った歌には、他のだれにも創れない名曲が多い。その歌詞は、オリジナリティに富んでおり、それ故に日本でも世界でも、理解されないものも多いだろう。それだけでなく、陽水の歌に親しんでいる我々の理解さえ、超えるかもしれないものも多い。例えば「傘がない」の歌詞は以下のように始まる:

 

都会では自殺する若者が増えている。今朝来た新聞の片隅に書いていた。けれども、問題は今日の雨。傘がない。行かなくちゃ、君に会いに行かなくちゃ。君の町に行かなくちゃ、雨にぬれ。

 

利己主義の権化のようだと思う人もいるだろうが、自殺数を減らすことは一般人には簡単にできることではないし、この主人公にはそれを考える立場にもない。ここでは、普通の日本人には口外が不謹慎に思える表現を歌詞に入れて、まるで遠近法を巧みにつかった油絵のように主題を歌っている。

 

これに続いて:

つめたい雨が、今日は心にしみる。君の事以外は考えられなくなる。それはいいことだろう?

 

比喩を用いれば、まるで砂漠の中を水筒もなく進む、脱水状態のひとの描写のようである。相手の方も同じ様な状態なら、会った後に電気のショートのように治癒することが約束されている。つまり、幸福な時間が約束される。

 

問題なのは、雨にぬれて行かなければならないことだろう。しかし、それは大した問題ではない。当然彼女もその考えについては同じ筈だと、相手に問うのが「それはいいことだろう?」であると私は思う。(補足1)「そんなに無理しないで、明日にすればいいんじゃない?」は、彼にとっては恐怖の言葉なのだ。

 

複雑で非常に大きな構図の大きなエネルギーの流れ(つまり、社会全体)のなかに、明確な小さな存在、しかし人間として十分熱い存在を、思い切りクローズアップで描いたのが、この歌だろう。

 

尚、素晴らしいライブの演奏は、CD版などと違って、二度と同じ演奏はないかもしれないと思えるほど大きくモディファイされている。

 

 

 

 

補足:

 

1)このいいことだろう?は当然、「君」に対する言葉であり、第三者に対する言葉ではない。(相手は目の前にいないのだが、二人の世界の中での問いかけである。)第三者だという解釈の方のブログもある:https://tokyo.whatsin.jp/85807) そこでは、「本当に社会に無関心な人だったら、ワザワザそんなことは問いかけない」と書いている。私には勘違いにしか思えない。()内は翌日午前に追加

昨日の記事には閲覧数も少なく、反響はまったくないに等しい。念仏を繰り返しても、仕方ないのだが、2年前の文章を再録する。自分でもボケが一段と進んでいることが、この文章を読んで分かった。

1)非核宣言をした日本の傀儡政権:

人類の未来には重要な二つの真理がある。その一つは、「核兵器は拡散する」という真理である。(補足1)現在の核保有国は、米国、ロシア、イギリス、フランス、中国、インド、パキスタン、北朝鮮、イスラエルの9カ国である。その他、旧ソ連のウクライナやカザフスタンなどは核保有の可能性が皆無とは言えない。南アフリカは核兵器を廃棄したと考えられている。

核兵器でも科学技術でも、強力に封じる力が無ければ確実に拡散する。南アフリカの核兵器放棄は、将来の黒人政権の誕生を考えて、米国などからの圧力があったというブログ記事がある。https://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/4539642.html もし南アフリカが国家としての体をなしていると仮定すれば、圧力がなければ放棄しなかっただろう。

イスラエルは核兵器を持つと考えられている。恐らく米国から導入されたのだろう。米国上層部を牛耳る勢力がユダヤ資本家だとすれば、簡単に理解できる。アラブの国々に囲まれて独立を守るのは大変だろうから、当然の対応だと言える。

インドは一貫してNPT(核拡散防止条約)やCTBTに反対したようだ。その理由は明快である。核保有国による、将来にわたる核兵器の独占を可能にする片務的内容だからである。

日本が非核三原則を国策として掲げ、NPTにも反対の世論など皆無の状態で加盟したのは、一貫して売国奴的人間が国家の中枢に座り込み、その体制を維持してきたからである。その与党体制維持の方法は、社会主義政党を反対勢力として育成することであった。日本の戦略ではなく、米国の優秀な戦略家の立案であることは明白だろう。日本は、国家としての体をなしていないのである。


2)地球上可住人口の減少について:

人類に予想されるもう一つの重要な出来事は、気候の大変化による食料不足と居住可能地域の減少、資源の枯渇などによる、地球上可住人口の減少である。それは人類に、中世の民族的エゴイズムを復活させて、国際的騒乱となるだろう。それは人類の宿命だろう。

今後世界の人口は増え続けるだろう。多少の少子化は、先進国に共通しているとしても、人類全体としては、その減少分を遥かに上回る人口増加が起こるだろう。また、原理的には全ての物質的資源は再利用し、全てのエネルギーを太陽光に頼ることは、将来的には可能であるが、それは遠い将来のことだろう。(補足2)

兎に角、不足する食料とエネルギーや資源は、人類に人の数を減らすことを強制するだろう。その際、民族間の淘汰が起こる可能性が高いと思う。その民族的間引きの対象となるのは、人種差別と自衛力の乏しさで選ばれる民族である。

それは、邪悪な民族に対する善良なる民族連合の防衛という形をとるだろう。そのプロパガンダの準備は既に始まって居るかもしれない。自衛力には、核兵器と通常兵器の両方が関係するが、圧倒的に核ミサイル技術が意味をもつだろう。ただし、高度な攻撃能力を持った核ミサイルはほとんど使われないかもしれない。ただ、国家の順位を決定するだけのもの、生存するための権利を担保する意味だけを持つ可能性が高いと思う。 実際に使われる可能性が高いのは、経済封鎖と内戦の誘発である。核攻撃と異なり、勝ち残る国家の人間は、その惨劇を直接観たり実感したりすることがなく、悪を為しているという実感を持たなくて済むだろう。大多数が殺された民族の国には、多少の売国奴的人物が残るだろうが、数十年後にはその他の地域から移り住んだ人間の中で存在感が無くなるだろう。歴史の中には、邪悪な一派は掃討されたと記載されるだけだろう。

善と悪は便利な概念である。(追補1)人は個人のレベルでも、善と悪を勝手に定義してもそれに気がつかない。ましてや、国家に於いてはプロの戦略家が善と悪を創造して、敵国に如何様にも適用できるだろう。それは、韓国や中国の対日プロパガンダを見るだけでも明らかであるし、中国の最古の歴史書以来の正史を見れば、明らかである。諸外国はそれを経験し、且つ、熟知している。

日本は2000年の単一王朝の国(補足3)であり、日本書紀を破棄して歴史書を書き換えた経験がない。それを自慢げに言う人が右の方に多いが、本当は日本の大きな弱点である。

「慰安婦の日本政府による強制連行」のような明らかに捏造した歴史が、世界で事実のように扱われているのは良い教訓の筈だが、日本政府が先頭にたって歴史捏造に加担している状況では、まともにその悪業に説得力のある異論が出せるのは、外国人ジャーナリストのみである。(e.g., ヘンリー・S・ストークス著、「連合国戦勝史観の虚妄」)

追補1:善悪の勝手な峻別はキリスト教圏など(一神教の国々)が得意とするところである。それ以外の国では、善悪は峻別されない。日本でも「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人おや」という親鸞の言葉が示すとおりである。(18:00追加)


3)「北朝鮮の非核化」は「日本の非核化」である。

昨日の記事で、日本の政治担当者は、日本国民の為に働いていないのではないかと書いた。United Nationsを国連と翻訳したのは、米国(国連の中心)の指示で日本を利用し易くする為だろう。その与党を攻撃するのは、中国やソ連などの支配下にあった人物である。つまり、戦後日本の政治は、米国の為に働く与党議員たちと東アジアの外国の為に働く野党の人たちが、日本の政界で何やら演じて居るだけに見える。(補足4)

北朝鮮は多くの困難を克服して、核武装に成功した。それは、北朝鮮国家の視点に経てば立派なことである。朝鮮半島の歴史を少しでも知ればわかる様に、朝鮮は中国の衛星国としてその支配に苦しんで来た(補足5)。もちろん、一部の国家支配層(両班)は隣国の力を借りて、難なくその地位を保持できただろう。

朝鮮の一般民は、多段階に設けられた社会的階層に封じ込められ、その境遇からの脱却を諦めるために儒教を押し付けられていたのである。一方、一般民が政治的力を次第に得るのは時代の趨勢であり、北朝鮮が真の独立国を目指すのも当然である。国家が苦しい国際環境から脱却し独立国としての体裁を整えるには、そして米国の支配下にある韓国に対して優位に立つためにも、核武装は必須であると考えたのだろう。

そのプロセスは、米国の銃社会を考えればわかることである。左右に銃で武装した集団が居る中で、安全と自由を得るには銃を保持するしかない。ましてや隣から銃口を向けられている環境下では、銃以外に頼る手段などない。国家としての北朝鮮の安全保障環境は、このような環境に置かれた個人のものと同様である。一旦もった核兵器を放棄するには、周囲が核放棄をすることが条件なのは当然である。或いは、放棄しない限り確実に殺される(キム王朝が潰される)と確信したとき以外にはあり得ない。

現在の北朝鮮の視野には、国際法も国連も雲散霧消した野生の世界が露呈しているだろう。しかし、それは北朝鮮に限らず、幻を見なければ、本質的に全ての国家に共通したものである。そのような光景が再び我が国の前に露呈する時が必ず来るだろう。それは既に上に書いた通りである。その時、どこの国が友邦として自衛のための核兵器を呉れるだろうか? そんな国は野生の環境には存在しない。

核兵器は、防衛に役立つ限り世界に拡散するが廃絶はされない。日本にとっては、北朝鮮の核武装は、否、それ以前の中国が核実験に成功したときには、日本も核武装する時だと考えるべきだった。(補足6) 少なくとも、中国や北朝鮮が核武装するのなら、我が国も核武装を考えないのは、自滅への道であると、堂々と国際社会に向けて発信すべきだった。

NPTやCTBTへ率先して、加盟し批准するというのは、もし日本政府が本当に日本国民のために存在すると仮定したなら、本当に愚かな政策である。日本がまともな国になるには、現在の政治家全てが入れ替わる必要がある。それには道州選挙区で一票の格差完全撤廃が、唯一の合法的手段である。この方法にトライしたのが橋下徹であるが、彼は失敗している。(補足7)非合法の手段も考えるべきだと、三島由紀夫は命を張って訴えたが、それは自衛隊員にすら真夏のセミの声程度にしか聞こえなかった。(補足8)列に並ぶのが得意な日本人は、ホロコーストの列であってもその列を乱すことができない愚かな民族なのだろう。何が原因?それは何時か慎重に議論してみたいと思う。

NPT: Treaty on the Non-Proliferation of Nuclear Weapons (核兵器の非増殖に関する条約:核武装国の非増殖に関する条約:通称は、核(兵器)拡散防止条約)
CTBT:Comprehensive Nuclear-Test-Ban Treaty 包括的核実験禁止条約 (現在未発効;発効要件国のうち未署名及び非批准国として、インド、パキスタン、北朝鮮、中国、米国、エジプト、イラン、イスラエルなどがある。)


補足:

1)核兵器拡散の防止や核兵器の廃絶は、世界政府が樹立されれば実現可能である。しかし、異なった人種間の文化的ばらつき、文明進展の程度におけるばらつきなどを考えると、その可能性は非常に小さい。もしそれが遠い将来実現し、人類がその恩恵を受けるとしても、それは必死に自国の生き残りを模索し続けた民族だけのものだろう。

2)離島に太陽光発電、風力発電、潮力発電などで電気を発生させ、それを人の住む地域に電気あるいは水素で送る。イワタニとトヨタは、それを標準的な未来のエネルギー調達法として考えて居るのだろう。それは賢明に思えるが、技術で遅れをとるのが覇権国などの大国であれば、それは標準とはならない。

3)単一王朝が維持できたのは、宗教を支配したからである。つまり、天皇家が(不完全ではあるが)人格神として天照大神を創造し、それを神道の創始者のように仕立てたからである。本来の神道はアニミズムであり、大きな山や川などあらゆる自然の存在が神体である。

4)北朝鮮の日本人拉致の問題を、堂々と「そのようなことはあり得ない」と言ったのは、戦後一貫して野党筆頭であった日本社会党から名称変更した社民党である。(社民党機関誌『月刊社会民主』1997年7月号:私は、読んでいないので、“裏をとった”わけではない。)

5)両班(ヤンバン又はリャンバン)から白丁(ペクチョン)まで多段階の社会的階層があった。白丁は、皮革製品を作る職人や芸能人など最下層の賎民である。(資料はウィキペディアなど多くあるが、以下を推薦する。https://www.y-history.net/appendix/wh0802-046.html

6)田中宇氏の解説を引用する。http://tanakanews.com/g1024japan.htm ひねくれた見方と思われるかもしれないが、この田中氏の考えが正しいのなら、自民党政権は当に米国の傀儡政権である。外国の傀儡政権ならそのうち正体がばれるから、退治されるだろう。しかし、日本の傀儡政権は厄介だ。なぜなら、日本人は言葉を聞いただけで、その霊に怯える民族である。核や放射線とは、恐ろしい悪魔の言葉なのだ。昔(60年ほど前の話)、ある大学の教授が放射線化学関連の予算要求する際、その霊を払拭するのに苦労したという記事を読んだことがある。

7)彼の失敗は、優秀な人材が十分得られなかったからである。本来、優秀な人材を得て、2-3度脱皮を繰り返さないと、この種の組織は成虫にはなれない。http://rcbyspinmanipulation.blogspot.com/2015/04/blog-post_4.html

8)ここに麻原彰晃を入れるのは、完全な間違いなのだろう。

これまで何度も靖国参拝を論じてきた。最近のものでは、今年1月2日に書いている。https://ameblo.jp/polymorph86/entry-12563990644.html

特に意見が変わったわけではないが、この時期に再度意見を示しておくのはブログを書くものの責任のように思うので、新たな短い文章を示す。

 

1)日本政府の戦争責任を明確にすべき

 

政府は日本国民に何故あれだけ多くの戦死者を出したのかを説明する責任がある。それを戦後75年間避けてきた。政府要人が靖国に参拝するのは、その責任放棄のように私には映る。つまり、「国を守ること=戦死すること」では無いはずだ。

 

この季節、現職国会議員を含めて全ての国民は靖国参拝すべきであるという話が大きくなる。それを聞くと、麻生さんのような貴族たちが、「お前たち下々は政治を考えるよりも、命を捧げることで国に貢献すべきだ」と大声で要求されているような気がする。

 

明治時代から現在まで連続的に繋がる日本政府は、75年前まで、勝手に作った国家神道を利用し、戦死者を神に祀り上げることで、安価に兵士の命を消費した。今になれば多少とも知的な人間は、冷静に考えられるだろう。戦死したからと言って、神になれる筈はないと。

 

同じ現世を生きる人間のくせに、「死んだ場合は神にしてあげる」と言って、一般国民の若い男子の命を無駄に使った可能性が高いのだ。予算の使いみちでも、会計監査をして、無駄或いは不法な使い方をしなかったか調べるのが普通である。金銭などと比較しようも無いほどに貴重な人の命を使ったのだから、その使い方に無駄が無かったのかを詳細に調べるべきである。

 

それをしないで、英霊たちは神になった証拠に、毎年我々も国民も参拝しますと、ごまかしているのが現政府ではないのか? 靖国参拝にクレイムをつける中国や韓国に対して、熱くなって敵意をむき出しにするひとたちは多い。頭に氷枕でも載せて、よく考えろと言いたい。

 

2)国を守ることの歴史と意味

 

江戸時代から明治に移るときの政変は、一言で言えば薩長が英国組んでクーデターを起して幕府を倒したことで始まる。そこからの所謂“近代化”は、西欧型社会を取り入れることであった。薩英戦争や下関戦争で圧倒的な差を見せつけられたので、軍の近代化はなかでも必須であった。

 

倒幕の際の戊辰戦争で利用した天皇を、軍の近代化にも利用しようとしたのが、国民皆兵制度と靖国神道(国家神道)の創始である。この時、日本に根付いていた伊勢神道とそのトップである天皇の地位に大きな変化があった。

 

近代国家の必要性を説くことが大仕事だと考えた明治新政府は、それよりも貴族制度を維持したまま国家神道を軸に国民を兵士として調達する方法を考え、選択したのである。日本の歴史が西欧のように、市民戦争から共和制の道をとっていたのなら、国民のための国家であるからと、国民皆兵制度を説得するのは簡単な論理で可能となる。

 

しかし、明治のクーデターから専制君主制とその下に貴族を配する政治制度を作り上げたのだから、国民皆兵性は国民を完全な支配民或いは奴隷と考える以外はかなり困難となる。それでは、強力な軍隊をつくることは難しい。そこで、江戸時代の天皇と庶民が伊勢神道を通して緊密だったことを利用し、靖国神道を作り上げたのである。

 

その結果、憲法には天皇元首制を謳い、軍隊を天皇直属として内閣の外に置いた。それが軍の暴走に繫がったことは良く知られる。その「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」という憲法11条の日本(大日本帝国)は、「戦争が外交の一つである」という近代国家の外交と、その社会(ウエストファリア体制)の政治思想を持ち得なかった。つまり、国家の敗戦は国民の玉砕(つまり死亡)を意味するという、怪獣国家を作り上げることになった。

 

その大日本帝国の延長上にあるのが、靖国参拝であり8月15日を終戦記念日とする現在の日本の姿である。戦闘が終わったのは、休戦協定の日であり、戦争が完全に終わったのは、講和条約の日である。私なら、終戦記念日を9月8日にして、それにより国民全てが戦争を再度考える動機とする。多くの謎が、その考察で消滅するだろう。

 

補足:

 

この文章を書く動機は、以下のyoutube動画を見たからである。

 

 

 

そこに以下のようなコメントを残した。何時ものように、ほとんど賛意は得られないだろう。

 

政府は日本国民に何故あれだけ多くの戦死者を出したのかを説明する責任がある。それを戦後75年間避けてきた。政府要人が靖国に参拝するのは、その責任放棄のように私には映る。つまり、「国を守ること=戦死すること」では無いはずだ。

 

勿論、一般人が戦死者の霊に感謝の意を捧げるために靖国に参拝するのは当然だが、それでもあの戦争を実行した政府の責任者も合祀している点で、一部納得がいかない。戦争を指揮した人たちの責任を問うことをしないで、歴史の総括をしないで、あの戦争を丸ごと完全な祖国防衛戦争として美化することになるからである。

 

更に、戦死者だけを何故神として祀るのか? 戦争は輝かしい行為ではない。従って、戦死者は神なんかではない。単なる戦死者である。それなら、伝統的な墓所をつくり、そこに国民は参拝すべきである。戦死者を神にするのには、戦争に対するごまかしがある。