「武田邦彦 テレビじゃ言えないホントの話!」という動画サイト(チャンネル登録者数約49万人)において、武田邦彦氏が日本の教育について熱弁を振るっていた。

(該当動画:https://www.youtube.com/watch?v=LRFOeCrLQEw )

 

 

武田氏は、現在の日本の教育は根底から乱れており、大学やエリート高校といった高等教育を含めて機能不全に陥っていると厳しく批判する。その元凶として、戦後左翼勢力による倫理教育への激しい反対運動と、それに配慮・妥協する形でもたらされた「教育は産業振興のためのもの」という実利主義を挙げている。

 

そして、本来の教育とは、国語や算数といった科目を教える前に、まず大人が子どもに対して「あなたの生きる意味(meaning of life)は何か」「あなたの役割(mission of life)は何か」を教えることであるべきだ、と主張していた。

 

動画の後半ではスタッフが補足し、日本の茶道や武道などにおける修業の3つの段階を示す思想「守破離」を引き合いに出しながら、「生き方の型(守)を教えないまま、いきなり『自分で考えろ』と放り出すから若者が迷走するのだ」と現行の教育方針を批判している。

 

かつて政府の教育諮問機関にも関わった武田氏らの教育論だが、私には大日本帝国時代、あるいはそれ以前の江戸時代の教育思想の焼き直しのように映り、現代日本のための教育論としては強い違和感を禁じ得なかった。

 

前提的な問題として、初等中等教育と高等教育を区別せずに議論している点も看過できないが、より本質的な問題は以下の諸点にある。

 

すなわち、「教育の目的が国家・社会の文脈において明確に設定されていないこと」。そしてその基礎的考察を欠いたまま、「『守破離』という前近代モデルを無批判に教育全般へ当てはめる危うさ」、さらには「そもそも大人が『生きる意味』なるものを子どもに教え諭すことの傲慢さ」へと雪崩れ込んでいる点である。

 

1.武田氏の主張の分析と違和感の本質

人は社会を作り、その中で生きる生物である。教育とは、子どもに対して行うそのための準備である。その目的は、「①個人が豊かな人生を送れるように育成すること」、そして「②社会(国家)に有用な人材に育てること」の二点に集約される。

 

日本では「社会」を「国家」と言い換えた瞬間に強いアレルギー反応が起きがちだが、共同体の存続において国が不可欠な組織である以上、近代公教育はこの二つの目的を車の両輪として設計されるべきであり、そのようにされてきたはずである。

 

①と②のどちらを優先するかは国家の体制によって異なる。専制君主制や大日本帝国以前の体制下では②が絶対視され、個人の幸福(①)は従属させられていた。

 

いわゆる左翼思想――その中核にある近代リベラリズム(自由主義)の本質は、宗教や国家の束縛からの「個人の解放」にある。したがって、国家主導の道徳教育や国民統合を徹底して嫌悪する。武田氏が槍玉に挙げた「戦後左翼勢力による倫理教育への激しい反対運動」の正体も、戦前の中央集権国家からの解放運動に他ならない。

 

リベラリズムは王政や絶対支配者から国家を奪い取ったが、その正統派が目指すのは、国家の主権すら解体し、国際的なエリートや市民代表を自称する勢力による新しい世界秩序を目指す運動:政治経済のグローバル化である。

 

武田氏が戦後左翼の倫理教育反対に抱く苛立ちは、主権国家の解体へ向かう運動に対する直感的な反発だろう。更に、その結果定着した「教育は産業振興のためのもの」という教育思想も、目的の中から、国家を担う国民の育成(本来の②)が骨抜きにされた教育を産む。

 

ここで私が違和感を持つのは、武田氏の現在日本の教育への違和感は共有するものの、本来の主権国家に資する人材育成(②)の復興を目指しているのか、それとも個人のための教育(①)を深めたいのか、教育制度全体の設計図がまったく見えてこないことである。

 

教育制度の設計図の議論には、当然国家と個人の現代的な関係の整理が必要である。武田氏らはそれをしないまま、「守破離」という前近代の伝統概念を持ち出して、中世風の教育論を始めてしまった。これらが、この動画に対する違和感である。

 

2.「守破離」モデルが孕むエリート教育への破壊力

番組スタッフが持ち出した「守破離」という概念:基本となる「型を守り(守)」、やがてそれを「破り(破)」、最終的に自己の境地を拓いて「離れる(離)」。このプロセスを学校教育の段階論に当てはめるならば、「守=初等中等教育」「破=高等教育」「離=社会での実践」と見立てることができる。

 

なるほど、社会の大多数を占める層(バルク層)を育成し、文化的に均質で秩序と安定が確保された社会において、その基盤を維持するための教育モデルとしては一定の合理性があるかもしれない。しかし、この考え方では国際化して安定性を欠く現在の日本で、「将来、国家や文明の先頭に立って未知の領域を切り拓く人材」を育てることは極めて困難である。

 

それどころか、突出した才能を持つ子どもに画一的な「守(大人が定めた型)」を強制することは、その才能の根幹を破壊してしまう危険すらある。

 

歴史を塗り替えるような異才やイノベーターは、往々にして既存の枠組みに対する強烈な違和感や、常識を疑う批判精神から出発する。彼らの幼少期には、退屈な基礎手続きを嫌い、最初から高度な難問(破や離の領域)に直観で飛びつき、そこから逆算して必要な道具を自力で獲得していくような“非線形な知性獲得史”を持っている。

 

そうした子どもに「まずは大人が決めた型を忠実に身につけよ」と迫ることは、彼らの最大の武器である特異性を去勢し、既存の秩序にそつなく適応するだけの凡庸な秀才へと飼い慣らすことに他ならない。

 

3.「生きる意味」という処方箋の息苦しさと傲慢さ

さらに、武田氏らが主張する「生きる意味を教える」という発想そのものが問題である。大人が子供に向かって「お前の生きる意味はこれだ」「社会における役割はこれだ」と上から授けようとする態度は、教育というよりは、宗教の教義の刷り込みに近い息苦しさを感じさせる。

 

かつて宗教が生きていた時代には、天から与えられた客観的な「生きる意味」が存在したかのように語られていた。しかし、その宗教的戒律や道徳規範も、もともとは過酷な自然環境や集団同士の争いの中で、「どうやって餓死せずに生き延びるか」「いかに仲間割れを防いで群れを維持するか」という、泥臭い生存の試行錯誤から出来上がったものにすぎない。

 

信者である民の生活を保ち、秩序を維持するための実利的な知恵が、後から「神の教え」や「生きる意味」として物語化されただけなのである。

 

そうした生存の歴史という事実を素通りして、抽象的で耳触りの良い「生きる意味」だけをありがたそうに子どもに押し付けるのは、大人の欺瞞であり、教えられる側にとっては鬱陶しい押し付け以外の何物でもない。

 

4.「どうやって生きてきたか」を客観的に手渡す

では、教育の現場で本当に教えるべきことは何だろうか。それは「生きる意味」などという空疎な観念ではなく、「人間はどうやって生きてきたか?」という、人類の足跡そのものであるべきだ。

 

歴史学、自然科学、社会科学、文学などを通じて、先人たちがどのような困難に直面し、いかなる過酷な環境に適応し、時にどのような愚行や失敗を繰り返しながらここまで生き延びてきたのか。その事実と知恵のアーカイブを客観的に学ぶことこそが、知性の土台となる。

 

ただし、人類が積み重ねてきた生存の冷徹な現実を客観視することは、小学生にはまだ重すぎる。

初等教育の段階では、壮大な人生論など必要ない。身体を動かし、よく食べ、よく眠り、約束を守り、読み書き計算を身につけるという、生物・社会成員としての足腰を淡々と固めれば十分である。

 

「人間はどう生きてきたか」という人類の歴史と向き合うのは、自他をメタ認知(客観視)できるようになる中等教育(中学校・高校)以降でよいのである。

 

5.おわりに

「生きる意味を教えなければ若者がダメになる」という論法は、教える側(大人や国家)が「自分たちの信じる生き方を若者に引き継がせたい」という統制欲求の裏返しであることが少なくない。

 

大人がなすべきは、安易な「生きる意味」の処方箋を配ることではない。「人類が泥にまみれながら生き延びてきた事実の記録」を道具として手渡し、あとは本人がそれぞれの人生を使ってそれらを解釈するのを助け、自前の頭と身体で勝手に生き抜いていくのを本来の在り方として見守ることではないだろうか。

 

日本国の低迷の一因は、日本の教育の中に“教育哲学”的配慮が十分ではなく、相変わらずクイズに強い高学歴人材を育成して様に見えることである。社会が複雑且つ高度な組織と内容を持つに至った現在、教育にも進歩がなければならない。現在のような教育を継続していては、国家のリーダー的人材を各分野に配置することは無理である。

 


【追記:AI(Gemini)との対話について】: 本稿の執筆にあたっては、生成AI(Gemini)との対話を通じて動画内容の論点整理とテキストの推敲を行いました。筆者の提示した「国家教育の二大目的」「守破離の限界とバルク層教育の欺瞞」「生存の歴史としての教養論」といった着想を構造化し、論旨の骨格を鮮明にする対話パートナーとして協力を得ています。