昨日の『そこまで言って委員会NP』では、司会(議長)を務めてきた黒木千晶アナウンサーが、『情報ライブ ミヤネ屋』の後継新番組『ニュースto』のキャスターへと抜擢されるという“出世話”が話題の中心になっていた。
私は、やしき たかじん氏が司会を務めていた時代から、日曜日の習慣としてこの番組を観続けてきたのだが、率直に言って、この番組は司会者が代替わりするたびに、ニュースに関するホットな議論の番組から単なる「井戸端会議」へと劣化してきたと感じている一人である。
これは日本の言論空間や政治の劣化とも重なるような気がしてならないが、今回は番組内でのある和やかなやり取りを入り口に、なぜテレビの議論が井戸端会議にとどまってしまうのか、その背景を考えてみたい。
1.竹中平蔵氏の助言とスルーされた「ジニ係数」
番組内での話合い中で、竹中平蔵氏に対して彼の総務大臣時代の経済政策に関する黒木アナの「突っ込み」が、出てくる場面があった。
彼女が「竹中さんが大臣だったときの政策で貧富の差が拡大したのでは?」と切り込んだのに対し、竹中氏が「小泉内閣のときだけ、ジニ係数が小さくなったのですよ」と返したシーンがあった。しかし、番組内ではその点に関するやり取りは続かず、そのまま流れの中で消えてしまった。
本来なら、専門的な論争まで行かずとも、「それは当初所得ではなく、社会保障による『再分配後』の数字のことですか?」といった程度の軽い切り返しが一つあるだけで、話の広がりや視聴者の受け止め方はまったく違ったものになったはずだ。
番組の終盤、コメンテーター陣から黒木アナへ今後のエールを送るコーナーで、竹中氏は笑顔を交えつつ「やはり一度大学院などで専門性を磨かれるのも良いと思います」と助言していた。それに対しても「修士とか博士の学位を目指すということでしょうか?」という形式的なお返しで終わってしまい、それ以上話が深まることはなかった。
場の空気を壊さないバラエティ的なやり取りではあったが、竹中氏の本音としては「重要な概念や指標が出た途端にそこで話を止めてしまうようでは、本格的な情報番組のキャスターにはなれないですよ」という、彼なりのアドバイスだったのではないだろうか。
2.議論とは「集団的思考」である
かつての『そこまで言って委員会』を振り返ると、コラムニスト・勝谷誠彦氏の情熱的な熱弁と、橋下徹氏の論理的な現実主義との激突が印象深い。心情的には勝谷氏に寄り添いつつも、論理の組み立てでは橋下氏に分があるのではないかと、視聴者である私自身の頭の中でも弁証法的な思考プロセスが動いていた。あれこそが「集団的思考」としての議論の面白さだった。
たかじん氏の司会が終わり、時代が進むにつれて、番組は次第に視聴率優先の大衆迎合や、当たり障りのない雑談の空気へとシフトしていったように感じる。議論風の演出はされていても話が噛み合わず漂流してしまうのは、話し合う側の間に共通の「思考の枠組み」が存在しないからである。
ジニ係数という専門用語が出ても、それを無言でパスしてしまうような場では、議論が深まりようがない。
3.思考の枠組みとは何か
思考の枠組みとは、ボクシングに例えれば二人が戦うための「リング」であり、あらかじめ合意された「ルール」である。リングという共通の場とルールを共有しなければ試合が成立しないのと同様に、思考の枠組みの共有なしには、いくら言葉を交わしても議論にはならない。
以前、国際政治評論家の伊藤貫氏が、思考の枠組みには大きく分けて三つの階層があるという話をされていた。
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哲学レベルの枠組み(人間観、文明観、社会の根源的な価値基準)
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学派レベルの枠組み(経済学や法学など、一定の前提に基づく理論体系)
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政策レベルの枠組み(具体的な予算配分や制度設計などの実務的手法)
もっとも基本的なところから根本的に考えるのが「①哲学レベル」の枠組みである。そして②や③の枠組みは、毎回ゼロから哲学を論じていては話が進まないため、時間とエネルギーを節約し、一定の合意の上で議論を効率的に進めるために作られた「議論上の約束事」である。
したがって、社会に発生した困難や課題を単なる一過性の現象ではなく「全体の問題」として捉えて解決策を模索するなら、必要に応じて最も基本的な枠組みにまで立ち返って議論しなければならない。
その思考の深さを人類の知的財産の言葉で表現したものが、この①〜③の階層なのである。
例えば、ある特定の貧困問題を考える際にも、
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それを近代社会の文化や市場経済システムそのものが孕む構造的矛盾(哲学・学派レベル)として捉えるのか、
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それとも現政権の失政や単なる政府の予算配分・給付の不備(政策レベル)として捉えるのか
という違いを考えれば分かりやすいだろう。
今交わされている議論の主題が、これらどの枠組みの、どの深さのレイヤーに属する話なのかという共通認識を持たなければ、話のピントが合わず、すれ違いの井戸端会議に終わってしまう。
そもそも「思考」とは、自分の頭の中で問いと答えを繰り返す一人二役の行為であり、他者と行う議論のシミュレーションそのものである。
自分の中に明確な「思考の枠組み」を持っていない人は、自問自答による深い思考ができないのと同様に、他者との間で実りある議論を成立させることもできないのである。
4.高等教育の役割とテレビの課題
高等教育、とりわけ大学教育や大学院の目的は、一言でいえばこの「思考の枠組み」をしっかりと身につけることにある。基本を学んだ上で体系的な専門性を養い、さらには物事の前提そのものを問い直す訓練を積む。最高学位が「Doctor of Philosophy(Ph.D.:哲学博士)」と呼ばれるのもそのためである。
これは西欧文化が長い歴史の中で培ってきた知の作法であり、物事を深く考えるための道具だ。もしテレビのニュースや情報番組がそうした枠組みを軽視し、ただ大衆受けする情緒的な突っ込みや感情論ばかりを垂れ流すのであれば、それは議論を装った「思考停止の場」になりかねない。
おわりに
竹中平蔵氏が黒木アナに大学院で学ぶことを勧めたのは、何も学者になれと言ったわけではなく、議論の土台となる「思考の枠組み」を自分のものとして身につけてほしいという思いからだろう。
新番組でキャスターを務めるにあたり、求められるのは単なる場を和ませる愛嬌や、素朴な素人目線の突っ込みだけではないはずだ。専門家の発言をただ鵜呑みにしたり受け流したりせず、「それはどういう前提に基づいた話なのか」と一歩踏み込んで問い返せるだけの、知的バックボーンである。
テレビ番組が安易な井戸端会議にとどまらず、視聴者にとっても有益な「集団的思考の場」となり得るかどうかは、進行役がどれだけ確かな思考の枠組みを持って言葉を扱えるかにかかっている。
追記: 今回も最後の段階でgoogle AIのgeminiを利用してまとめました。