――真の再生に必要な教育と史観とは――


 

はじめに

深刻なインフレが国民生活を圧迫し、長期金利が上昇へと転じる中、日本経済は極めて危険な岐路に立たされている。米国からの金融・財政政策に対する圧力が強まり、日銀の利上げ観測が乱高下を呼ぶ中で、我が国はさらなる「円安の崖」へと滑り落ちようとしている。こうした危機的状況の最中、政府のブレーン層に関わる三橋貴明氏と会田卓司氏の対談(動画)を目にする機会があった。今日はこの二人の議論に対する批判と、真に欠けているものは何かという日本の政治・経済の病理について論じたい。

 

 

https://www.youtube.com/watch?v=ZVG2Sc06Xg4

 

1.会田卓司と三橋貴明両氏の主張

動画の中で会田氏は、米国の財務長官による日本のリフレ政策批判について「高市政権(高市ノミクス)がアベノミクス2.0だと誤解されている」と分析し、本来は「リフレ政策(需要拡大)から投資拡大を通じた成長軌道への移行」や「適切な金利引き上げ(正常化)」を意味していると解説した。

 

一方の三橋氏は、米国の圧力や市場の都合で政策を変革することに「主権国家と言えるのか」と強く疑問を呈し、過去のアベノミクスについても「緊縮財政と金融緩和の偏重に過ぎず無駄であった」と批判。現状の資金過剰や企業投資の不足を踏まえれば利上げなど言語道断であり、円安によって輸出企業が利益を上げている事実こそ評価すべきだと主張した。

 

双方とも一見示唆に富む解説を行っているが、そこで展開されていたのは、マクロ経済モデルの数字や制度論を弄び、自らの理論枠組みを絶対視する教条主義的なやり取りに終始する姿であった。国家の根本的な構造や文化に向き合うことなく、抽象的な理論のみで経済を語る彼らの言葉から、筆者は日本政治の根底にある底知れぬ絶望感を強めざるを得なかった。

 

2.迷走する政府審議会とミクロ派の限界

政策決定の現場である政府の有識者会議や審議会においては、実際にも「マクロ派(財政・金融による需要刺激)」と「ミクロ派(構造改革や現場の効率化)」の双方が主張を戦わせてきた経緯がある。

 

マクロ派は「需要がなければ企業は投資も効率化も行わない」と訴え、ミクロ派は「働き方や職務給への移行といった構造改革なしに持続的な成長はない」と主張の中心を置いてきた。

 

例えば、内閣府の経済財政諮問会議(第9回)における民間議員提出資料では、構造改革の重要性について以下のように明記されている。

「構造的な人手不足の下で、潜在成長率を高め持続的な成長を実現するためには、労働移動の円滑化や職務給の導入等、労働市場改革を加速させることが不可欠である」
(※内閣府『経済財政諮問会議』民間議員提出資料より引用)

また、内閣官房の「新しい資本主義実現会議」が取りまとめた改訂案においても、ミクロ的な生産性向上と構造改革の重要性が次のように強調されている。

「我が国経済の持続的成長のためには、単なる需要刺激にとどまらず、リスキリング支援、職務給の導入、成長分野への労働移動円滑化という『三位一体の労働市場改革』を通じ、現場の労働生産性を飛躍的に高めることが極めて重要である」
(※内閣官房『新しい資本主義のグランデザイン及び実行計画 改訂案』より引用)

しかし、形ばかり審議会で双方の意見を出させはしたものの、現在の政治構造においては現場の変革を促すミクロ側の意見が生かされることはまずないだろう。

 

3.本来の「議論」の不在と形骸化する意見聴取

本来の議論とは、この双方の主張を戦わせる中で互いの限界を自覚し、自らの①思考の枠組み(フレームワーク)を拡大させて、②「止揚(アウフヘーベン)」を目指すプロセスであるはずだ。

 

もし双方が自らの枠組みを超えて思考を深めようとしたならば、経済停滞のさらに奥深くにある、直接的ではないが複雑に絡み合う日本の本質的な問題点に突き当たったはずである。すなわち、「日本はもともと食料やエネルギーなどの資源に恵まれない国であり、個々人が優れた技能や発想を100%発揮して効率的に働かなければ豊かな国になり得ない」という経済の原点である。

 

さらには、「我が国は真実や論理(ロジック)ではなく、人と人との関係性や空気によって動いてきた」という歴史的・心理的風土への気づきである。

 

しかし現実には、西欧的な議論の伝統を持たない日本では、この内閣府の経済財政諮問会議などでの論争は単なる「陣営同士の勝ち負けを決める試合」に過ぎず、深められることはない。しかもジャッジは政府のトップである。

 

形式的に行われるミクロ派の意見聴取も、実態は政府が結局のところマクロ派の方針(大規模な財政出動等)を選択し決定するための「公平に意見を聞いた」というアリバイ工作や言い訳に使われるだけである。

 

4.日本の意思決定構造における病理(「無責任の体系」)

なぜ、日本の集団は議論によって自らを変革することができないのか。その歴史的根源は、我が国特有の意思決定構造にある。政治学者・丸山眞男が看破したように、日本の伝統的な権力構造は、明確な個人的責任を負う主体の不在による「無責任の体系」を特徴とする。

 

合理的・客観的な論理によって合意を形成するのではなく、「人間関係の配慮」や「その場の空気」によって意思決定が流走していく。この病理が最も悲劇的な形で表出されたのが、昭和16年の開戦から昭和20年の終戦に至る「御前会議」をはじめとする最高幹部たちの意思決定プロセスである。

 

昭和16年の対米開戦前夜、陸海軍のトップや閣僚たちは、物資や戦術の客観的データ(論理)においては勝算がないことを自覚しながらも、組織間の面子や勢いという「空気」に呑まれ、誰も「開戦反対」の責任ある一声を上げることができなかった。

 

そして昭和208月、本土は焦土と化し、原爆投下とソ連参戦によって国家滅亡の淵に立たされてなお、最高戦争指導会議や御前会議の重臣たちは自らの議論と合意形成によって「降伏」の決断を下すことができなかった。陸軍と海軍、主戦派と和平派がそれぞれの立場と面子を譲らず、集団としての自浄作用は完全に麻痺していたのである。

 

最終的にこの不全状態を打開したのは、昭和天皇という超然とした存在による二度にわたる「聖断」であった。すなわち日本は、組織や最高幹部たちの合理的論争によって自らの過ちを正したのではなく、集団の外側に位置する「たまたま現れた圧倒的な個」の出現にすがることでしか、自らの態度決定を行うことができなかったのである。

 

この歴史的病理は、現代の経済政策決定の場においても何ら変わっていない。マクロ派とミクロ派が互いの立場に籠城し、勝敗を争うだけの不毛な決闘を繰り返す構造は、昭和の軍部や省庁のセクショナリズムそのものである。

 

集団内部での健全な議論と止揚を放棄した現代日本は、再び国家的な破局を迎えるまで自らを変革できない。 国民も、存在もしない「救世主的な一人」の出現を空しく待ち続けているのだ。

 

おわりに:

――木に竹を継いだ近代の終わりと、教育再生への道はあるのか?――

明治以降の日本は、議論のない日本のままで西欧の表面的な制度や学問を模倣することによってここまで歩んできた。根底にある西欧哲学の精神や伝統的な知識体系を身につけることなく、英国などの協力の俄か普請で、単なる仕組みだけを導入したのである。

 

しかし、結果、現在の日本文化は「木に竹を継いだ」ような歪みを抱え、まともな生命力を失いかけている。そして、未来の日本を支えるべき教育もまた、衆知を集めて統合する市民を育てることに失敗してきた。最高学府の出身者が目立つのはTVのクイズ番組だけではないのか?

 

だからこそ、滅びの淵に立つまで自らを変えられず、国民一般は現れるかどうかもわからない一人の強力な指導者にすがるほかないという、近代日本の悲劇的な特徴が繰り返されているのだ。

 

今、私たちがなすべきは、安易なマクロ経済の処方箋に期待することではない。日本の歴史を真摯に真実に最高の価値を置いて根本から学習し、哲学と史観に裏打ちされた真の教育を充実させ、国民の一人ひとり、日本人全体が、日本の将来の礎を考えるべきである。

 

自ら考え、そして自ら立ち上がる国民を育て、そうした民意を受け止める「歴史と教育の再生」を掲げる新たな政治勢力を育成・擁立していくことこそが、この国が真の生命力を取り直す唯一の道である。


 

追記: 本稿の執筆にあたっては、対談動画の文字起こしデータの要約・分析、および筆者の提示した史観や問題意識に基づく文章の構成・公的資料の引用において、AIアシスタント「Gemini」の協力を得ています。