―― 日本は今、独自の世界モデルを用いて生き残り戦略を構築すべき ――


はじめに――なぜ今、哲学なのか

現在、世界は大きな転換期にある。国際秩序、経済、金融、技術、そして国家そのもののあり方まで、これまで当然と思われてきた前提が次々に揺らいでいる。

 

このような時代に世界の動きを理解し、それに備えるためには、既成の歴史観や社会通念をそのまま前提とするのではなく、多くの人が共有できる事実まで戻り、そこから世界の構造を一つずつ組み上げて現在の世界モデルを作り上げ、それを基にして考えてみることが必要である。

 

それが「哲学的思考」である。しかし日本では、「哲学」という難解な名称も関係して、何か難解で、現実生活とは縁遠い学問のように受け取られており、そのような能動的学問とは考えられていないと思う。

 

つまり、哲学とは「この世の本質とは何か」「人間存在とは何か」といった形而上学的な問題を考えることだと思っている人が多いのではないだろうか。

 

今回は、哲学とはそもそもどのような知的作業なのか、過去の哲学者から何を学ぶべきなのか、そして日本でなぜ哲学が現実から遠いものとして受け取られるようになったのかを考えてみたい。

 

1.哲学とは何をすることなのか

哲学とは、多くの人が共有できる事実を出発点にして、言葉と論理によって世界についてのモデルを組み上げていく知的作業である。 哲学において「世界の何について考えるか」は人さまざまであるが、「どのように考えるか」という点では共通している。

 

実践的には、多くの人が共有できる事実を確認して、そこで用いる言葉や概念を明確にすることで思考の基点を固め、そのうえで、論理によって事実を結び付け、世界についてのモデルを組み上げていく。この基点を固める作業と、そこから思考の前線へ進んでモデルを作る作業の両方が、哲学的手法である。何を対象にするとしてもこの方法が必須である。

 

したがって、対象ごとに哲学が存在する。自然を対象とすれば自然哲学、歴史を対象とすれば歴史哲学、政治を対象とすれば政治哲学、社会を対象とすれば社会哲学となる。

 

この中で、とくに大きな成功を収めたのが自然哲学であった。自然は観察することができ、さらに実験によって条件を変えながら仮説を検証することができる。作られたモデルを事実と繰り返し照合し、間違っていれば修正し、事実とそれらの間の法則として整理することができた。

 

こうして自然哲学の大きな部分は独立した学問として発展し、今日われわれが自然科学と呼ぶものになった。そして、その成功が非常に大きかったため、「哲学的思考」よりも「科学的思考」という言葉が好まれ、自然哲学より自然科学、社会哲学より社会科学という呼び方が一般的になっていった。

 

その結果、科学そのものが、事実や基本概念を基点にし、言葉と論理によって世界のモデルを作るという手法の哲学から発展してきたことが見えにくくなった。

 

一方、存在、精神、死、神なども哲学の対象となる。しかし、これらの問題では、多くの人が共有できる事実や基本的概念の整理が難しく、作られたモデルもその検証が難しい。そのため高度な議論を積み重ねることはできても、過去の成果に新しい知識を積み上げていくことが難しい。

 

この分野の哲学は、個人の主観的意味(生き方)を問う領域として分岐した分野であり、一般に共有可能なモデル化が困難な領域である。それらの性質上、宗教がこの部分で有力であり、哲学は旗色が悪い。哲学というと、日本語の明治以来の印象もあって、この領域が強調されることが多い。

 

しかし、それは上述のように哲学全体の姿ではない。繰り返しになるが、哲学の本体は、事実を確かめ、言葉を明確にし、論理によって世界についてのモデルを作るという、もっと広い知的作業なのである。

 

2.過去の哲学者から何を学ぶのか

哲学を学ぶ以上、過去の哲学者が何を考えたかを知ることは有益である。彼らはわれわれより先に同じ問題を考え、多くの優れた考え方とともに、行き止まりになった思考の道筋も残している。それらを利用しない理由はない。しかし、それは自分で哲学するための基礎である。

 

ソクラテス、カント、ヘーゲル、ニーチェが何を言ったかを知ること自体が目的になり、そこに長くとどまってしまえば、自分自身で哲学するところまで進めない。過去の哲学者から必要なものを学び、そこから先は自分で事実を確認し、自分で言葉を定義し、自分で論理を組み立てる。

 

多くの人にとって、過去の哲学を学ぶ目的は、哲学者について詳しくなることではなく、自分自身が哲学する力を身につけることにあると思う。

 

3.世界の政治モデルの哲学的構築

現在の世界を理解しようとするとき、世界の政治モデルを作る必要がある。そこで、民主主義、国家と国民、戦争、貿易などの基礎概念を整理する。これらはどのように機能するのか、関係はどうなっているのかという基礎固めをする。

 

こうした問題について、教科書や政府の説明をそのまま前提にするのではなく、まず確認できる事実を集め、その事実のモデルを作る。しかし、政治や社会については自然科学のような実験を行うことはできない。その代わりに使えるのが歴史資料である。

 

人類はすでに、帝国の興亡、革命、戦争、恐慌、通貨危機、国家破綻などを何度も経験している。過去の歴史から史実を取り出し、それを現在の政治モデルの構築や検証に利用することができる。したがって、国家や社会について考える場合、史実は自然科学における実験結果に相当する。

 

現在の事実からモデルを作り、それを過去の歴史に当てはめる。過去の現象も説明できればモデルの信頼性は増し、説明できなければ修正する。例えば、『国家』を単なる地理的領域ではなく『暴力の独占と契約の体系』というモデルとして捉え直す。そして、再び現在の事実と照合する。

 

激動の時代であるからこそ、事実を固め、言葉を明確にし、論理によってモデルを作り、歴史によって検証する。私は、この方法が現在の世界を理解するうえで、非常に重要だと思う。

 

4.なぜ日本人には哲学が遠く感じられるのか

哲学を英語では philosophy というが、それは古代ギリシャ語の philosophia に由来し、「知」あるいは「知恵」を愛することという意味を持つ。ところが日本では、これを「哲学」と訳した。この訳語の成立は、西周をはじめとする明治初期の知識人による。

 

西洋の巨大な知的体系を短期間に日本語に移し替える彼らの仕事は、さぞかし難事だっただろう。明治の知識人たちは苦心の末に「周哲(広く賢く知る)」から「哲学」と訳語を充てたが、「哲」という漢字が持つ「賢者の深遠な教え」という厳格な響きが、結果としてこの学問を日常から遠ざけてしまった側面は否定できない。

 

哲学という命名は、この学問の日本における変性の第一歩だった。「哲学」にとって、日本で得た位置は適正とは言えなかっただろう。この名称は、その後の日本人の哲学に向かい合う姿勢を象徴しているともいえると思う。

 

哲学が難解で特殊な学問として受け取られたことは、例えば教育の中で過去の哲学者の思想を知識として学ぶことに重心が置かれ、自分自身で哲学する習慣が育ちにくくなったこととも無関係ではないだろう。哲学 が「知を愛すること」という思想が定着していたなら、その後の哲学の日本文化における位置や諸学問との相互作用はかなり違っていただろう。

 

日本人にとって今必要なのは、哲学者の難解な言葉を多く覚えることではない。「自分で考えるための知的方法」として、日常の中に取り戻すことである。

 

おわりに――難解な哲学はわれわれには必要ない

我々が現実の世界を理解するために必要なのは、多くの人が共有できる事実を固め、そこで使う言葉を明確にし、論理によって世界についてのモデルを作り、歴史という人類の膨大な実験記録によってそれを検証するという哲学的方法である。そして、それによって知的資産を積み上げることである。

 

現在のように、世界の前提そのものが大きく変わりつつある時代には、既成の世界観をもう一つ覚えることよりも、自分で世界を組み立て直す力の方が重要である。哲学とは、現実から離れた難解な学問ではない。先の見えない世界を、自分の頭で理解するための知的技術なのである。

 


追記: 本稿は、AIとの対話を通じて論点を整理し、その助言を参考にしながら筆者がまとめたものである。