——日本を支配する「蛸壺文化」の正体——
先日公開された山口敬之氏の動画(YouTube)では、高市政権の予算案を巡る財務省の執執な抵抗が批判されていた。食料品の消費税ゼロや給付付き税額控除といった政策に対し、財務省がメディアや野党を操り「倒閣」に動いているというのである。 https://www.youtube.com/watch?v=YIYTXUN0Hrg
しかし、我々はこの「政治ドラマ」の異様性にもっと注目するべきではないだろうか。そもそも財務省という一官僚組織が、米国の深層政府(ディープ・ステート;DS)のように日本の政治を牛耳っているかのようなことがあり得るのだろうか? 私はこの種の批判が政治・経済の評論家や政治家の口から頻繁に聞かれることへの違和感を強く感じる。
この山口氏が言及する類の対立があるとしたら、そしてそのような状況が延々と数十年語られている異様な光景の根底には、明治維新から150年、日本人が目を逸らし続けてきた「空虚な知性」と「構造への隷属」という、より深い病理が存在していると思う。今回は原点思考でこの点を明確にしたい。
1. 財務省への丸投げと、財政ポピュリズムの罠
なぜ財務省が「DS」のように全能の悪役として語られるのか。その理由は、政治家が自ら数字を組み替え、国家のグランドデザインを描く「知性」を持ち合わせないため、無計画にポピュリズム的な行政の無駄を蓄積させてきた。その帳尻合わせを官僚機構に丸投げしてきたからに他ならない。
政治家が作る組織が空虚な器であるからこそ、その空白を埋める官僚組織が巨大な権力の城に見えるだけである。 山口氏が評価する「積極財政」という処方箋も、そのような無計画な思い付き行政の一つであると思われる。筆者はかつて**「高市政権の危い財政ポピュリズム」**(参照:Social Chemistry)でそのことを指摘した。
日本はこの35年程の間、伸び悩む経済の中で、行政が本来行うべき制度改革という「手術」(本質的解決)を先送りし、赤字国債という「鎮痛剤」で胡麻化してきた。その繰り返しを大規模に行う危険性を直視しなければならない。制度改革には、日本の伝統的構造:4月に一斉に就職して終身雇用を普通とする労働文化など、労働の流動性の阻害要因の打破などが含まれる。
日銀が金利操作の自由を失いつつある今、構造の欠陥をさらなる借金で覆い隠そうとするのは、野生の勇気ではなく無謀なポピュリズムである。財務省という高い壁を突破できるのは、耳当たりの良い公約ではなく、数字の裏付けと制度設計の責任を伴う「本質的な知性」だけである。
2. 「模倣」が奪った日本の野生と、蛸壺文化の闇
なぜ日本人は、これほどまでに「構造」や「前例」に従順なのか。その正体は、明治維新から続く「模倣の文化」と社会に根付く「蛸壺(たこつぼ)文化」にある。
西洋の制度を完璧にコピーすることで成功を収めた日本は、その過程で「原点から考える力」を失ってしまった。自分で考えた結果の責任を負うことを避け、用意された「器(構造)」の中に安住することを選ぶ。この従順さは、江戸時代の身分制度から平民に植え付けられた「家畜的な性格」の裏返しでもあり、我々はこの思考停止の状態を「安定」と呼び変えてきた。
さらに、入学式や入社式に象徴される国民全員を対象にした「同質化の儀式」や、一生を同じ会社で同じ専門で生きるなど組織に捧げる「蛸壺文化」が、「人と知の流動性」を止めている。
経済界で成功した野性味ある人材が政治に入ろうとしても、この「同じテンプレートで生きるのが正解」という同調圧力と、それを利用した政治貴族と彼らと連携した既得権益層が作った選挙制度の壁が阻んでしまう。高額の供託金は一体だれのためを考えて設定されたのだろうか?この構造こそが、日本人が自ら作り上げた「檻」の正体である。
結び
今、我々日本国民に求められているのは、国家から「金」を引き出すことでも、用意された「物語」に熱狂することでもない。それは、我々自身が「模倣の殻」を破り、思考の外部化(丸投げ)を止めることである。
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政治家への要求: 官僚のメモを捨て、自分の言葉で、何時間でも、逃げずに国民と対峙せよ。
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国民の覚悟: テンプレート人生という「家畜の安寧」を拒絶し、自分の頭で社会の構造を問い直せ。
構造に従順なままでは、日本は緩やかに、しかし確実に衰退していく。 財務省依存というこの空虚な舞台を終わらせるために、我々一人ひとりが、自らの人生とこの国のあり方を「原点から」考え抜く知性を取り戻さなければならない。
(本記事は、google AI のgeminiの協力を得て作成しました)