(本稿は、OpenAI ChatGPT の協力により作成されたものです)
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はじめに――政治と倫理が乖離した世界で、なぜ倫理を語るのか
現代の国際政治を前にすると、倫理という言葉は空しく響く。国家は、国家の利益に基づいて行動し、戦争に訴えて残忍に相手方を殺害することさえ正当化される。そして、国際秩序は軍事力と財力によって維持され、倫理が持ち込まれるのは理想論の中だけである。
しかし同時に、私たちは倫理なしには生きられない。日常のあらゆる活動における人と人の接触において、互いの信頼感や予測可能性が無ければ円滑にはいかない。平穏な日常を取り戻すには、法だけでなく倫理を共有していることが必須である。
本稿では、国際政治の次元では倫理が意味を失う一方、日常の社会生活では倫理が不可欠であるという矛盾の意味から出発する。そして、人類史・文明史の視点から、政治と倫理がどのように分岐し、なぜ今日のような緊張関係に至ったのかを整理した上で、現代において倫理が持つ意味を再考する。
尚、この問題を考える動機は、以下の宮台真司氏と海沼みつしろ氏との議論に刺激されたことです。本文章は、この動画の内容とは独立に考察した結果です。https://www.youtube.com/watch?v=6A3vecWnTpE
1.人間の条件と倫理――「人として生きる」ための規範
倫理とは何か。それは、抽象的な善悪論ではなく、人が他者と共に生きる際の摩擦や不確実性の中で、円滑なる関係を維持するための規範である。
人は単独では生きられない。必ず誰かと関係を持ち、その関係の中で活動をする。職場や趣味の仲間、そして様々な仕事関連での外での人間関係などでは、契約や法では処理しきれない場面が日常的に生じる。
・相手が弱っているとき、どこまで支えるのか
・自分が損をすると分かっていても、信頼を維持すべきか
・裏切られるかもしれない不安の中で、それでもことを進めるか
こうした問いに対して、人は常に計算だけで答える訳ではない。むしろ、計算を超えた態度―信頼、誠実、忍耐―がなければ、関係そのものが成立しない。
この意味で倫理とは、「人間であることを確認するための実践」である。倫理は結果の保証を与えない。裏切られることも、失敗することもある。それでもなお裏切らないことに賭ける、その態度そのものが倫理である。
その根拠は、各世代の人間が、裏切られる可能性や不利を引き受けながらも、その都度「自他ともに人間性を確認する」行為を選び続けてきたこと、そしてその累積によってのみ、人間が共同体を拡大し、文明を形成し得たという進化史的事実にある。
2.政治という営み――共同体を維持するための力の技術
政治とは、倫理の拡大版ではない。 政治とは、利害が衝突する多数の人間を、一つの共同体として存続させるための技術である。
国家という共同体は、家族や地域とは比較にならない規模を持つ。数百万、数千万以上の人間が、互いの顔も知らずに同じ枠組みに属する。そのような集団を、倫理的信頼だけで統合することは不可能である。
そこで政治は、法、制度、権力、暴力の独占といった手段を用いる。政治が判断基準とするのは、「善悪」ではなく、「存続可能性」である。政治は倫理的に正しいから行われるのではなく、共同体を維持するために必要だから行われる。
国家という共同体が崩壊したのなら、その領域内は治安は失われ、より小さな共同体である家族や地域の共同体も崩壊の危機に瀕する。この法を必要とする段階で、倫理と政治は明確に分岐する。
3.領域拡大と文明発展――倫理が政治を覆えなくなった理由
人類史を振り返れば、共同体の規模が拡大するにつれて、政治は倫理の射程を超えていった。
部族社会や小規模共同体では、倫理と政治はほぼ重なっていた。しかし、人口増加、領土拡大、交易、戦争、文明の発展とともに、政治は次第に倫理では処理できない問題を抱えるようになる。
国家間戦争において、「自国の利益になること」が善となり、敵を殺すことが正当化されるのは、この構造の帰結である。ここでは、敵もまた人間であるという倫理的直感は、政治的合理性の前に意味を失う。
重要なのは、これは倫理が誤っているからではないという点である。倫理は、そもそもこの規模の集団間の問題を処理するために創られたわけではない。
4.道徳・倫理・法――三つの規範の役割分担
ここで、規範の整理が必要である。
・道徳:家族や親密な関係における行為規範
・倫理:より広い社会的関係を持続させるための規範
・法:国家という巨大共同体を統治するための強制的規範
道徳は、互いに顔を認識した一対一の人的関係を対象とし、愛情や友情、更には恩などの“情のやりとり”が中心に存在する場合が多い。倫理は、より大きな社会を想定した人間としての在り方を示す。道徳や倫理には、人を警戒し除外するという類いの規範は含まれない。
法は、可能な限り道徳や倫理と衝突しないように設計される。しかし、人を排除し罰する類いの法律も多く、国家規模の統治には倫理を踏み越える判断も必須となる。
それでも歴史的に見れば、国家は倫理なしには存続できなかった。無制限戦争、民族殲滅、無差別殺戮は、短期的には国家の利益に見えても、長期的には無限の敵を生み、共同体そのものを破壊する。倫理を完全に無視した政治はやがて自壊するのが常であった。
しかし今、地球が有限であることを意識し、地球上の可住人口が想定されている。そして、覇権国と非覇権国との関係や、核兵器のような究極兵器の出現は、思考の枠の拡大を必要としているように見える。この問題は、今後のテーマとしたい。
5.倫理は不要になったのか―政治と生活の非対称性
しばしば「現代は倫理が通用しない時代だ」と言われることもあるが、この理解は不正確である。確かに、国家上層や国際政治の次元では、倫理は意思決定の原理として機能しない。そこでは力、資源、技術、人口、地政学が支配的である。
しかし、人は国家として生きる以前に、生活者として小さな共同体の中で生きる。そして社会全体はそれら小さな共同体の連なりによって成り立っている。人間の生活世界において倫理は必須であり、決して不要になっていない。
倫理が完全に失われた社会では、人はしばらくは生き延びることはできても、「人間として生きる」ことはできない。その結果家族という最も小さな共同体も崩壊することはあきらかである。
勿論、国家のエリートたる者たちには、想定する共同体のスケールでの倫理の重みを意識して設定し直す能力が必要である。それは道徳と倫理という二つの規範を使い分ける能力の確保と同じプロセスである。しかし、一般人にはそれは短期間では無理な要求である。
6.宗教の再定義――倫理を支える言葉の体系
この文脈で宗教を捉え直すなら、宗教とは「倫理を実践する中で疲弊した個人に対する鼓舞と慰撫の体系」である。
倫理は人に重い負担を課す。裏切らないこと、信頼すること、損を引き受けることは、必ずしも報われない。むしろ裏切られることの方が多い。
宗教は、そのような状況において「それでも続けよ」「意味は失われていない」と語る言葉の集積である。それは善悪を裁定する装置ではなく、倫理的実践を継続させるための精神的支えである。
おわりに――政治を直視し、倫理を手放さないために
政治は倫理を超えて動く。これは否定できない現実である。しかしそれでも、人は倫理なしには生きられない。倫理は政治を統御しない。だが、倫理がなければ、人間は単なる資源や計算の対象に還元される。
文明がどれほど拡大し、政治がどれほど冷徹になろうとも、人が人として生きる限り、倫理は不要にはならない。政治と倫理の乖離を直視した上で、それでも倫理を手放さないこと―そこに、現代を生きる人間の条件がある。