――町内会、宗教、そして「食と安全」の政治学
(本稿は、OpenAI ChatGPTとの対話を通じて構築された思考整理をもとに執筆したものである)
はじめに
町内会という組織に対して、多くの日本人が漠然とした違和感を抱いている。法人でもなく、法的強制力を持つわけでもない。しかし現実には、会費を徴収し、行政の下請けのように振る舞い、寄付や協力を半ば当然の義務として求めてくる。
この曖昧な存在を理解しようとしたとき、問題は町内会そのものではなく、人はなぜ群れをつくるのかという、より根本的な問いに行き着く。
1. 戦前・戦中の町内会と、GHQによる禁止
戦前日本には、町内会・部落会・隣組といった地縁組織が存在していた。それらは戦時体制の中で、配給、動員、思想監視まで担う国家統制の末端装置へと変質した。この構造をGHQは明確に危険視し、占領初期にこれらの組織を原則禁止・解体した。
民主主義と相容れないと判断したからである。しかし、GHQはその「完全禁止」を維持できなかった。理由は単純だった。日本社会を放置すれば、統治不能に陥る可能性があったからである。民主主義を定着させるために、GHQは民主主義を管理せざるを得なかった。
その結果、「非政治的・任意団体」という条件付きで、地域共同体は黙認される。ここに、戦後日本の町内会の原型がある。
2. 現代の町内会は何のために存在しているのか
現代の町内会は、理念的な自治組織ではない。実態は、市町村にとっての低コストな社会インフラである。
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ゴミ集積所の管理
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公園や防災活動
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高齢者の見守り
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災害時の連絡網
これらを行政が直接担えば、莫大なコストがかかる。町内会は、それを無償または低コストで肩代わりする装置として機能している。同時に、日本社会では地縁・血縁以外の人的ネットワークが極めて弱い。会社という職縁が崩れ、家族も縮小する中で、行政が頼れる「人のつながり」は、もはや地縁しか残っていない。
自治体が祭りや地域行事を支援する背景にも、この事情がある。文化保存ではなく、ネットワークの延命である。
3. なぜ日本では地縁・血縁以外のネットワークが育たなかったのか
他国では宗教が、この役割を果たしてきた。教会や宗教共同体は、信仰の場であると同時に、救貧、教育、相互扶助を担う中間集団だった。日本の宗教は違う。仏教は葬送と死者管理に特化し、神道は地縁と一体化した。宗教が地縁を超える人的ネットワークを形成することはなかった。
その代替を担ったのが、会社と国家である。日本社会は、宗教なきまま、会社と国家によって統合されてきた特殊な社会だった。そして今、会社も国家も、その役割を十分に果たせなくなっている。
4. そもそも、人は群れをつくる必要があるのか
ここで問いを原点に戻す。人は、本当に群れをつくる必要があるのか。芸術や真理追求、趣味による共同体は存在し得る。しかしそれらは一般的ではなく、社会全体を支えるものではない。
生物学的に見れば、
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食が安定して供給され
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安全が完全に保障されている
ならば、群れる進化的必然性は消える。この前提に立つと、人が群れをつくるジェネラルな必要性は一つに収束する。それは、食の安定供給と安全の確保を実現するための政治的活動である。
政治とは、集団として生存条件を決定・配分する行為に他ならない。個人の選好を超えて、全員を巻き込む強制力を持つのは、政治だけである。
5. 町内会の正体
この視点から見れば、町内会の正体は明確になる。それは、国家が食と安全の完全保障を引き受けきれなくなったことを、住民側に転嫁するための準政治装置である。
だから、任意と言いながら実質的には必須になる。だから、善意と言いながら割当が生じる。だから、誰も正当性を明言できないまま、慣行だけが残る。
おわりに
人は、本来、群れる必要はない。群れが必要になるのは、食と安全を政治的に確保しなければならないときだけである。
現在の日本が直面している問題は、その政治的必要性を国家が正面から引き受けず、町内会という曖昧な装置に押し付けている点にある。町内会を残すのか、変えるのか、終わらせるのか。その前に問うべきなのは、もっと単純で、もっと重い問いだ。
国家は、何を引き受け、何を引き受けないのか。そしてそれを、国民に正直に語っているのか。
(2026/01/14)