はじめに
高市政権が発足直後の衆議院解散へと舵を切ろうとしている。 支持率の高いうちに「国民の信を問う」という判断は、一見すれば民主主義の正道に沿っていると見えるかもしれない。しかし、現在の日本を取り巻く環境は、それほど悠長なものだろうか。
米国によるベネズエラ介入という衝撃的な事件は、米国が「東半球の管理」から手を引き始めるという決定的なパラダイムシフトを突きつけている。本来、政治が今すぐ向き合うべきは、これによる「日米同盟の変質」に日本がいかに対処し、生存戦略を描くかという国家の根幹に関わる問題のはずだ。
しかし、現政権が選ぼうとしているのは、国会での本質的な議論を先送りしたままでの総選挙である。私はこの光景に、かつて「複雑怪奇」と述べて思考を停止し、破局への道を進んだ戦前の指導部と同じ「無責任」の影を見てしまう。
1.米国の「撤退の論理」と日本の混迷
前回の記事で、私は米国のベネズエラへの介入が、昨年末に創った国家安全保障戦略にそった新しい見取り図を象徴する事件であると述べた。その見取り図とは、「西半球は米国の直接管理圏とし、東半球は各地域の勢力均衡に委ねる」という事実上の半球分業である。
日本の安全保障と外交判断は、いまやこの米国の戦略変更を前提としたものでなければならない。つまり、この戦略変更により、今後米国との同盟に依存し続けるだけでは自国の安全を担保できないことがより“一層”明白となったのである。
今回のベネズエラ事件に対し、日本やEUが歯切れの悪い声明に終始しているのは、道義心の欠如などからではない。米国が東半球から後退した後の国際的秩序に関して、全く設計図を持たないためなのである。どうして良いか分からないから、米国の行動を正面から評価できないのだ。
これは外交上の慎重さではなく、戦略不在の帰結である。法や原則に照らして是非を指摘することは、通常国際秩序を維持するための責務だが、方向性を欠いた批判は無駄であるだけでなく、米国からの反感を買って国益を損なうと考えているのだろう。
繰り返しになるが、米国と同盟関係にない国々が、その軍事行動に対して国際法上の疑義を明確に指摘しているなかで、日本政府が間接的な批判さえも避けざるを得ない背景には、「撤退後の安全保障像」を自ら描けていないという構造的な弱さがあるはずだ。
2.歴史は繰り返すのか?――「世界が読めない」日本病
1939年、独ソ不可侵条約が突如締結されたとき、日本の政治中枢は世界情勢の急転に対応できなかった。時の平沼騏一郎首相が残した言葉――「欧州情勢は複雑怪奇」――は、国際政治の構造を把握できていなかったことの告白であった。
その後、近衛文麿首相もまた、米英からの「大陸からの撤退要求」と、国内の広範な「政策維持要求」という矛盾の間で決断を先送りし、最終的に「もはや打つ手なし」として政権を投げ出した。その結果、好戦派の陸軍大臣・東条英機が政権を担うことになったのである。
ここに見られるのは、世界秩序がどの方向に向かっているのかを理解できないまま、指導的立場に留まり続けたことによる「無責任」の露呈である。いま私が恐れるのは、この「読めなさ」が、形を変えて85年後に再び現れたことである。
3.解散総選挙という「責任転嫁」の危うさ
このような状況下での衆議院解散には、二つの読みが成り立つ。 一つは、政権基盤を固めるという政局的判断。 もう一つは、世界構造の転換という重い判断を、国民的選択に委ねるという「丸投げ」である。
後者は一見、民主主義的で正しく見える。しかし、複雑を極める国際政治や安全保障の判断こそ、プロフェッショナルである政治家が責任を負うべき領域である。
日米戦争に至る過程で日本が露呈したのは、軍事的な敗北以前に、「流動的世界情勢に対する認識の欠如」であった。自らの位置と役割を定義できない国家は、いずれ他者の決定に従属するしかなくなる。
結びに代えて:危機の只中で
米国の戦略変更が明確化した今、本来示されるべきは解散総選挙の日程ではなく、東半球における日本の生存戦略である。それを持たないままの議会解散は、戦争へと突き進んだ1939~1945年の大日本帝国と同様、思考停止状態が招く結果に関する責任を、国民に転嫁する行為に他ならない。
日本はいま、危機の只中にある。 危機とは、砲声ではなく、戦略なき「思考の空白」として現れる。
日本国における思考の空白をプロフェッショナルな政治家が埋めるか、素人の国民に丸投げするのか。その分水嶺に、私たちは立っている。
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(本記事は、生成AI(ChatGPTおよびGemini)の協力を得て、現時点での解散判断が孕む歴史的な危うさについて論じたものである)
