――ネット時代の日本共同体とエリートの育成方法――

 

現在、世界が文明の転換点にあり、その中で日本は存続の危機を迎えている。その原因は、日本の地政学的位置もあるが、それ以上に日本にまともなリーダーたる政治家とそれを育てるまともな政治空間が無いからである。

日本が抱える本質的な問題は、対米従属とそれによって利益の分配を受ける政治貴族とそのとりまきが政治を担当し、その世界的危機に正面から対峙するのではなく、米国の戦略の中で破滅へ向かう谷底の道を半ば強制されていることである。

ただ、その谷底の道から脱出する動きが無いわけではない。数年前から、日本の政治に疑問を抱いた人々が新しい政党を立ち上げ、従来、家業のように政治を担ってきた世襲政治家から政治を取り戻そうとする運動を、YouTubeなどのSNSを通じて展開している。

本稿では、新しい政治の在り方を議論するため、個別政策論ではなく、「あるべき民主国家のモデル」「日本におけるリーダー層の歴史的断絶」「ネット時代の政治共同体と日本のエリート層生成」という3つの観点から整理してみたい。

 

1.あるべき民主国家のモデル

 

民主主義はしばしば、最も正当で望ましい政治制度として語られる。しかし歴史的に見れば、形だけ整った民主政治は、必ずしも能率的でも安定的でもなく、まして長期的な発展を自動的にもたらす制度ではなかった。

民主主義における「平等」の基本は多数決であるが、その直接的適用は、その時点での合意形成は簡単であっても、その結果に対する責任の所在は曖昧であり、長期に亘る全国民の利益を反映した政策の獲得は困難であることが多い。

実際、外国によって崩壊させられた独裁国家に民主主義政治が移植されても、殆どの国は内乱などの混乱状態に陥るのが常であった。それは何故なのか、何が欠けているのかを、あるべき民主国家のモデルを作り上げ、そこからスタートして考えてみる。

私が考える“民主国家のあるべき姿”は、構成する国民すべてのを生活を、国民すべてが担う「共同体」であり、その目的である生命と安全、厚生と福祉を能率的に実施・維持するための「機能体」である。

 

(注釈:共同体→ 国民が「この国を引き受けている」と感じる倫理的・感情的・責任的な結びつき;機能体→ 国家が現実に政策を実行し、秩序・安全・分配を動かす制度的装置)

そのような国家では、国民は他を尊重し自分の役割を果たすように努力し、それに相応しい待遇と分配を受けるという共同体的プロセスと、各人の特徴や能力を各人の担う役割に正しく反映させる機能体的プロセスを、それぞれ円滑に実現するシステムを作り上げ、運営することが可能となる。

民主政治とは、こうした国家運営に関する決定に対し、全ての国民が平等に参加する権利を持つ政治形態である。その「平等」は、成人に限るなどの様々な規定を設けるのが普通であり、必ずしも各人の感覚的平等と一致させる訳ではない。

重要なのは、その運営判断に対する平等ではなく、共同体の一員としての「尊厳における平等」と、国家という機能体の中で相応しい位置を占める「機会における平等」である。

以上のような考え方で、政治を担当するリーダー層を育成し、そこへの政治判断の委託がなされれば、国家を長期的に維持し、危機において決断し、平時には抑制できるリーダー層が形成される筈である。

 

2.日本におけるリーダー層の歴史

 

①武士階級という統治エリート

日本社会には、長い時間をかけて形成されてきたリーダー層が存在した。江戸時代における武士階級、そして明治以降、その変形としての官僚・軍人・実業家層である。

彼らは単なる権力者ではなく、国家と社会を引き受ける役割意識を持った統治エリートだった。武士階級は、血統と家格に基づく閉鎖性を持ちながらも、教育・修養・責任倫理を通じて、自らを統制する集団でもあった。

明治国家は、この武士的エリート層を基盤に、近代国家としての制度設計を行った。完全には遠かったものの、日本が短期間で近代国家として自立できた背景には、このリーダー層の存在があった。

②占領政策による断絶と「残渣としての政治貴族」

しかし、このリーダー生成回路は、戦後の占領政策によって根本から破壊された。武士階級の倫理的継承は断たれ、官僚・軍人・思想的中核は解体され、日本社会は意図的に「指導層不在」の状態に置かれた。

 

その結果として残ったのは、破壊者が選定した占領政治の協力者を中心とした指導層である。責任倫理を失ったまま形式だけを継承する世襲的政治層となって戦後政治を受け持った。彼らはエリートの外形を持ちながら、国家を引き受ける覚悟も、思想的緊張も欠いている。

戦後初代首相になった吉田茂は、自分たちの後継として官僚機構の中から人材を登用した。そして、「優秀な学校成績」「最高学府への入学」「官僚機構への登用」が、エリートの条件だと信じられてきた。しかしその結果生まれたのは、国家を引き受ける主体ではなく、責任を回避しながら制度を維持する管理者集団だったように思える。

霞が関に集積した人々を、私は人格的に否定したいわけではない。ただ、彼らが担っているのは国家意思の形成ではなく、既存制度の保守であり、そこに「この国をどうするのか」という倫理的緊張はほとんど感じられない。

現在の日本政治が漂流しているように見えるのは、本来存在すべきリーダー層が空洞化したまま、疑似エリートが居座っているからだと私は考えている。かつては身分制度と教育制度が担っていたリーダー生成機能を、現代では別の形で再構築する必要がある。

 

3.新しいリーダー層の育成方法:ネット空間の利用
 

安定的かつ発展的な日本という共同体国家を再構築するには、特定の家系や学歴によらない、全国民からのリーダー生成回路を作り直す必要があるそれは国家が一方的に任命するものでも、選挙制度だけで自然発生するものでもない。

人々の言動が可視化され、評価が蓄積され、それらの摩耗と検証を経て政治における思想や試案のストックが形成される空間が必要だ。私は、その条件を満たし得る場として、インターネット空間と、それに接続された現実の組織に注目している。

インターネットは分断を生む装置だとよく言われる。しかしそれは、短期的・匿名的・断片的な使われ方をした場合の話である。長期にわたる発言の蓄積、人格が透けて見える対話、評価が履歴として残る空間では、逆に信用が生成され得る。

日本社会が依然として高い信用を維持している点に注目すべきである。嘘をつくコストが高く、言行の一貫性が長期的に評価される文化は、世界的に見ても稀有だ。そこに政治的ストックを蓄積できる可能性に注目したい。

ネット空間では、人は過去の肩書きや「虚の実績」を携えて参加しても、長期的には膨大な数の評価・批判が虚飾を摩耗させる。本当に思考し、修正し、責任を引き受けられる人間だけが残る。

本物のリーダーが現れるには、時間が必要だ。ネット空間と現実の組織が接続され、信用が蓄積され、その中から自然に人が選ばれていくと思う。

 

おわりに ――参政党という政治運動に期待――

数年前より参政党は、こうしたネット空間における新しい対話の萌芽を、政治という領域に持ち込もうとしている。未熟であるがゆえに粗な部分も多いが、それでも従来の政党には見られなかった創生のエネルギーが存在する。


私はこの政党を、完成された答えとして支持しているのではない。むしろ、日本社会が失ってきた「共同体的対話」と「機能体としてのエリート生成の試行錯誤」が、ようやく可視化され始めた兆候として注視しているのである。

 

実際、参政党の経済政策は、現時点では高市内閣と同様、放漫財政に近い発想を含んでいる。私はこれを支持するつもりはない。(注釈:https://ameblo.jp/polymorph86/entry-12948919988.htmlを参照)

 

しかし重要なのは、これは思想や運動の欠陥というより、人材と内部のブラッシュアップ機能がまだ十分に育っていない段階だという点である。どの政治運動も、初期には意欲が先行し、理論と実践方法は後から鍛えられ完成するのである。

 

2026/1/06; 本稿は部分的にOpenAI chatGPTの支援をうけ作成されました)