――世代間相互扶助と介護問題
(本稿は、OpenAI のChatGPT の協力を得て作成されたものである。)
はじめに
日本社会において、老人扶養や介護の問題は、もはや一部の家庭だけで処理できる段階を超えている。しかしそれは、社会全体が引き受けるべき課題として共有されているとは言えない。そこまで問題の本質は正しく理解されていない。
そのためこの問題は、制度の不備や社会構造の変化としてではなく、「若い世代の意識の変化」や「家族の責任感の希薄化」といった形で語られ、特定の世代に押し付けられる形で表出している。社会が引き受けきれていない問題が、世代間の愚痴や非難として現れているのである。
本稿は、そもそも社会がどのような単位によって構成されてきたのかという点から出発し、時代の変化に伴う社会構造や文化の変化と、老人扶養や介護の在り方との関係を整理することを目的とする。その整理を通じて、現在そして将来における世代間協力を、どのように社会制度として構想し得るのかを考えるための材料を提示したい。
1.社会は「個人」だけで成り立ってきたのではない
現代社会では、社会の構成単位は個人であるという理解が、ほとんど自明の前提として語られる。権利も義務も契約も、すべては個人に帰属し、社会とは個人の集合体であるという考え方である。しかし、この理解は歴史的に見ればむしろ例外的であり、人類社会の多くは、個人よりも大きな単位を基礎として成立してきた。
人はまず家に属し、地域に属し、血縁や宗教や民族といった枠組みの中に置かれてきた。社会は裸の個人を直接受け止めるのではなく、いくつかの中間単位を通じて人を位置づけてきたのである。これらの単位は、生存と秩序を支えるための装置であった。
とりわけ重要なのは、老い、病、障害、死といった「生産から外れる局面」が、常にこれらの単位の内部で処理されてきたという点である。社会は、働ける個人だけで構成されるのではない。むしろ、働けなくなった人をどう支えるかという仕組みを内包することで、社会が持続してきた。
介護や扶養は、近代的な社会保障制度が登場する以前から、社会構造の課題であった。ただしそれは、集団の防衛や生産の維持といった、より根本的な課題に付随する形で現れてきた問題である。家が引き受けるのか、血縁が引き受けるのか、宗教共同体が引き受けるのか、それとも国家が引き受けるのか。社会の性格は、この問いへの答え方によって大きく異なってくる。
2.家・地域共同体型社会と世代間相互扶助――近代以前の日本の社会構造
日本社会を考える上で、まず取り上げるべきなのは、家と地域を基礎とする社会構造である。近代以前の日本において、社会の構成員は個人ではなく「家」であり、その家が集まって地域社会を形成していた。家は単なる居住単位ではなく、生産・消費・教育・扶養を内部に抱え込む生活単位であった。
この構造において、老いはこれらの構造の外にある社会の問題ではなく、当たり前に家と地域の内部で処理される事柄であった。高齢者は労働から完全に排除される存在ではなく、経験や知識を担う役割を持ち、身体的に弱れば家族の扶養を受ける存在として位置づけられていた。介護は制度でも職業でもなく、生活の一部であり、世代間の相互扶助は当たり前の前提として機能していた。
地域社会もまた、この仕組みを補完していた。日本では、葬式や相互扶助は家単位だけでなく、地域が担う部分も大きかった。農作業や水利管理、祭祀などを通じて形成された地域の結びつきは、家だけでは支えきれない局面において、生活を下支えする役割を果たしていた。
この近代以前の日本型社会構造は、人口が安定し、家族規模が比較的大きく、人の移動が限定されていた社会においては、極めて合理的であった。国家が高度な行政能力や社会保障制度を持たなくとも、社会は一定の安定を保つことができたのである。
しかし、この仕組みは同時に明確な前提条件を持っていた。少子化が進み、核家族化が進展し、地域社会が弱体化すると、家と地域に内包されていた介護機能は急速に機能不全に陥る。介護の負担が特定の家族成員、とりわけ中間世代に集中するという問題は、現代において顕在化している。
3.近代化・個人主義化と介護の社会化――生活様式の転換としての必然
社会が近代化し、工業化と都市化が進むと、どの社会においても共通の変化が起こる。人々は家や血縁、地域から切り離され、労働力として市場に参加する存在となる。女性の就業が進み、生活単位は小さくなり、世代間の同居は例外的なものとなる。
この段階において、介護や扶養を家族の内部で処理することは、物理的に困難になる。これは価値観の問題ではない。近代工業化社会が、外注せざるを得ない生活様式を生み出し、それを矯正する過程で、結果として個人主義を生み出し、定着させたのである。
個人主義は冷たい思想だから介護を外注するのではない。外注せざるを得ない生活構造が、個人主義を社会の基本原理として押し上げた。
そのため、近代化が進む社会では、家族内扶養だけで対応することが次第に難しくなり、制度化された社会サービスへの依存が強まっていく傾向がある。ただし、家族扶養と社会サービスが併存する形も見られ、その実態は社会ごとに異なる。
4.日本の現在地――近代化の帰結としての介護問題
ここまで見てきたように、介護や老人扶養の問題は、道徳や世代間意識の衰退によって生じたものではない。社会が近代化し、工業化と都市化が進み、個人が家や地域から切り離されて生活するようになれば、どの社会であっても、介護を家族の内部だけで完結させることは困難になる。これは価値観の選択ではなく、生活様式の帰結である。
中国のように血縁扶養を前提としてきた社会でも、中東のように宗教規範が世代間相互扶助を支えてきた社会でも、近代化の進展とともに同様の問題が、異なった形で表面化している。北欧諸国は、その問題に対して社会サービス化を早い段階で進めた例にすぎず、質的に異なる社会類型に属しているわけではない。歩んできた道筋の違いが、現在の位置の差となって現れているにすぎない。
日本社会の特徴は、家と地域を基礎とする社会構造が長く機能してきたにもかかわらず、その前提条件が失われた後も、なお同じ構造を前提とした思考や期待が残っている点にある。家族が介護を担うことを当然視しつつ、実際にはそれを担えない生活構造が広がっている。このずれが、介護問題を個々人の苦悩や世代間対立として顕在化させている。
この分析から示唆される方向性は明確である。日本が近代工業社会としての生活様式を選択し続ける以上、介護を家族の内部だけに委ねることは現実的ではなく、制度としての社会サービスは不可避の課題となる。
もっとも、介護を社会サービスとして引き受けるためには、社会全体として十分な労働生産性と財政的余力が前提となる。この点については、すでに本ブログにおいて繰り返し論じてきたため、本稿では詳述しない。
ここで確認しておきたいのは、日本の介護問題が「特殊な失敗」ではなく、近代化の過程で生じた必然的な構造問題であるという点である。
本稿で行った社会構造の整理は、具体的な解決策を直ちに提示するためのものではない。まず、自分たちがどの社会構造の延長線上に立っているのかを正確に把握することが、すべての議論の出発点になると考えるからである。
単なる制度移植や理念の導入ではなく、日本社会の構造条件を踏まえた上で、誰が負担し、誰が受益するのか、制度と家族扶養をどのように分担すべきなのかといった具体的な問いを、今後あらためて検討していく必要がある。
おわりに
社会の経済システムを近代化するのなら、それへの社会全体の適応を考えるべきである。日本の介護問題が「特殊な失敗」ではなく、近代化の過程で生じた必然的な構造問題であるということである。本稿で行った社会類型の整理と老人介護問題の考察は、問題の解決策には直結しない。
先ず必要なのは、自分たちがどの社会構造の延長線上に立っているのかという把握から、現在の介護問題を考察することである。単に特定問題の解決という設定ではなく、解決策を支える経済や政治の問題をひっくるめて、日本社会全体の問題として考えることが大事である。
優れた西欧の文化を取り入れるにしても、単に「接ぎ木」的な移植では新たな問題に苦しむ結果になるのが必然である。根の部分、つまり基礎からの考察(哲学的考察)が必要なのである。
(2025/12/23午前)
