ふるさととはなんなのだろうか。父母が亡くなった後も、長い間そのような問いが心に浮かぶことはなかった。私にとって故郷とは、生まれ育った懐かしい場所であり、帰ろうと思えば帰れる場所、そして父母が迎えてくれるところという意味のままであった。


10年以上も前になるが、職場で隣に座っていた珍しい姓の人物に、その姓の由来を尋ねたことがあった。その時彼は、それが石川県のある地域に限定された姓であることを語るとともに、「私は田舎に帰らないのだ」と、室生犀星の詩を引用して語った。

 

その時以来、学校で習った室生犀星の詩が、その人物の記憶とともに心の中に引っかかっていた。そして最近ふと、ふるさとを詠った石川啄木の詩と室生犀星の詩に大きな違いがあることに気付いた。それが、本ブログ記事を書いた動機である。

 

本稿では、啄木の二つの詩──「ふるさとの山」「ふるさとの訛り」──と、犀星の「故郷は遠くにありて」を手がかりに、人生の段階によって変化する「ふるさと」を考えてみたい。それは同時に、私自身が老いのなかでのふるさとを確認する作業でもある。

 

石川啄木──幼少期の原風景としての「ふるさと」

石川啄木(1886–1912)は明治期の歌人であり、26歳という若さで病没した。 彼は結婚し、妻子もいたが、家族は早世して血縁の系譜を残すまでには至らなかった。(文献参照)

 

ふるさとの山に向ひて

言ふことなし

ふるさとの山はありがたきかな

 

この詩の「ふるさとの山」は一説によると岩木山だが、もはや現実世界の具体的な場所ではない。幼少期の内面に定着した記憶としての山 ーそれが啄木が詠ったときのふるさとである。
 

ふるさとの訛なつかし

停車場の

人ごみの中に

そを聴きにゆく

 

これも、なまりによって呼び覚まされたふるさとの記憶を詠っている。たまたま故郷に向かうバスの停車場近くを通りかかった時、ここでバスに乗ればふるさとに行けることを確かめる為に停車場まで行ったのだろう。

 

啄木の人生は26年間と短く、その多くは都市生活と貧困、仕事によって、ふるさとから引き裂かれた時間であった。これらの郷愁を詠う詩二編は、そのような厳しい人生の中で喪失した啄木のふるさとである。

 

室生犀星──成熟した人生の視点から見た「故郷」

これに対して室生犀星のふるさとの詩は、まったく異なる感覚を詠っている。

 

故郷は遠きにありて思ふもの

そして悲しくうたふもの

よしや

うらぶれて異土の乞食となるとても

帰るところにあるまじや

ひとり都のゆふぐれに

ふるさとおもひ涙ぐむ

そのこころもて

遠きみやこにかへらばや

遠きみやこにかへらばや

 

この詩は、郷愁というよりもふるさととの決別を詠っている。

 

ふるさとを出て働くために遠く離れた土地に移り住み、その土地に骨を埋めることになるのは、近代日本でも家を継ぐ長男以外の普通の人生だっただろう。犀星も何度か転居を繰り返し結局東京に住むことになったようだ。
 

ある時、ふるさと金沢に帰った犀星を迎えたのは、啄木の描いたような暖かく自分を包み込んでくれるふるさとではなかったようだ。優しくそして温かかったふるさとを心にしまい込んで、遠く厳しい東京に帰ろうとする決心をこの詩は詠んでいる。
 

二つの詩に詠われた「ふるさと」の違い

啄木と犀星の「ふるさと」は、その詩に刻まれた情況と人生における意味合いが異なる。一般に、就職や家庭を築くなどの人生の各ステージを応じて、心の中の「ふるさと」は徐々に変化していくのだろう。

 

「ふるさと」が持つ意味は決して不変でも一様ではないし、人と情況によっても様々だろう。父母が故郷に健在であるあいだ、ふるさとを懐かしみ、疲れたときには帰ろうとするのは自然である。そこにはその地を慕う気持ちとともに、親との関係が織り込まれている。

 

啄木の詠んだふるさとは、ふるさとが心の中で“変質”する前の郷愁を謳っていると思う。生きることに夢中であったのかもしれない。そしていつの間にかふるさとへは帰れない境遇になってしまったのだろう。

 

しかし、父母が世を去り、自分の子どもたちが成長したころには、故郷には自分の座る場所が無くなっているのが普通である。つまり、ふるさとは「遠きにありて思うもの」でしかなくなるのも自然である。
 

室生犀星は、その遠きにありて思うものでしかなくなったふるさとを発見し、前に進むべき自分を奮立たせるために故郷との決別を明確に詠んだのだろう。「遠きみやこにかえらばや」は、その戦いに似た自分の人生の場へ帰る覚悟を示している。その自分がこれから帰るところは、自分の子たちのふるさととなるのだろう。

 

犀星にとっての故郷そして父母は、一般的ではないことは文献などにみられる。しかし、犀星にとってもふるさとの山や川は幼少期でも時として自分を慰めてくれる存在だっただろう。ふるさとの川である犀川の犀の一字をペンネームに用いているのだから、故郷を嫌う気はない筈である。

 

人生のステージ変化とふるさとの意味の変遷

人はふるさとを原点として生まれ、育ち、大部分はそこから外の世界へと押し出されていく。その原点があるからこそ現在の自分があり、さらにその自分が、次の世代──子どもたちの故郷を作るために必死に働き生きる。
 

この関係こそが、健全な人の生のつながりとふるさとの関係なのだろう。その人生のなかでの戦いや苦しみ、諦めや悟り、そして老いから死に向かう時間のなかで、ふるさととの距離は物理的にも心理的にも変質していくのである。

 

おわりに

 

多くの日本人が「ふるさと」と聞いて先ず思い浮かべるのは、”うさぎ追いしかの山、小鮒釣りしかの川”とうたう唱歌ふるさと(高野辰之作詞、岡野貞一作曲(1914))だと思う。これは小学生の音楽教育向きの「故郷讃歌」であり、人生の前半なら大部分の人の心の中に共通して存在する故郷である。

 

学校教育を修了したのちに社会に出て、さまざまな人生経験を経たあと、故郷は心の中に確かに存在するが、その像はひと様々である。ふるさとに帰ることが出来なかった啄木の心の中の故郷は、それだけより暖かくより美しく描かれることになったのだろう。
 

ふるさとに帰ってみても安住する場所ではないと発見した犀星は、決して安住の地ではないが東京で生きるしかないと考えた。「異郷の乞食となっても故郷は帰るところではない」との強い決意には、故郷との決別の意味もあるが、それ以上に東京での暮らしの厳しさー人生の厳しさを感じる。
 

犀星のこの故郷の詩に自分の気持ちを重ねる人も多いかもしれない。「はじめに」で紹介した職場で隣に座っていた人物もその一人だろうし、そして老齢となった現在の私もその一人である。
 

(本稿は、OpenAI ChatGPTGPT-5)の協力により作成されたものです)