序章 真実の崩壊と新たな相対論の必要
いま世界は、「真実」という言葉の意味を失いつつある。それは単なる情報過多やフェイクニュースの問題ではない。もっと深く、人間社会を支える「真」と「善」という概念そのものが、共有不可能になりつつあるという現象である。
SNSの言論空間では、同じ出来事をめぐって、まるで異なる宇宙が並行して存在しているかのようだ。科学の世界でも、「仮説を証明すること」が真理と混同され、政治や宗教の世界では、信仰と事実が再び不可分の関係に戻りつつある。このような混迷は、単に思想の多様化による結果ではなく、「共同体」が解体した結果としての真理の相対化にほかならない。
かつて真理は、「我々が共有するもの」であった。しかし今日では、「私が信じるもの」になってしまった。そして、この“私的真理”が無限に拡散し、社会全体を貫く共通の基準が消えつつある。それは同時に、善と悪の区別の崩壊でもある。
本稿の目的は、このような「真と善の相対化」が不可避であると認めた上で、それを悲観的にではなく、むしろ新たな共同体倫理の基盤として捉え直すことである。真理はもはや絶対ではなく、共同体的に構成される。善もまた、共同体の生存戦略の一形態として相対的に成立する。この視点を「真と善の相対論」と呼ぶ。以下、まず「真とは何か」から出発する。
第一章 真実とは何か──デカルトを超えて
「真実とは何か」という問いは、哲学の最も古い問いでありながら、いまほど切実な時代もない。近代合理主義の祖・デカルトは、「我思う、ゆえに我あり(Cogito, ergo sum)」という一文において、すべての懐疑を通過した末に残る唯一の確実な真理を見いだした。
しかし、この命題には根本的な限界がある。「我」という言葉を発する瞬間に、人間はすでに他者の存在を前提としているからである。
言葉そのものが共同体の共有物であり、誰かに理解されることを前提にしている。「我」と発する時、そこには必ず「汝(あなた)」の影が映り込んでいる。したがって、「我思う」と語る主体は、すでに社会的存在であり、完全に孤立した“純粋な我”など存在しない。
思考とは、言葉の運動であり、言葉は共同体に属する。つまり、思考の基礎には必ず社会的な共有構造がある。この理解に立てば、「真」は決して普遍的なものではない。共同体の数だけ真理が存在し、文明が異なれば、真理も異なる。
宗教ごとに異なる啓示があり、文化ごとに異なる論理が成立するのは、この構造に起因する。科学も同様に、真理を固定化しないことによって進歩した。科学とは「共同体内で暫定的に共有される仮説体系」にすぎない。
この視点を拡張すると、言語・宗教・共同体の三つは相互に絡み合った一本の螺旋で進化してきたことがわかる。言語は宗教的象徴体系とともに共同体を形成し、共同体はその内部で「善悪」や「真偽」を創出する。
この三重らせんが人間社会の基礎構造であり、真理を語るという行為は常にこの構造の内部でのみ意味を持つ。真理は個に宿るのではなく、関係のなかに宿る。「我思う、ゆえに我あり」ではなく、「我ら語る、ゆえに真あり」。
第二章 善とは何か──共同体の生存本能としての道徳
「善」とは、ある共同体が自らの維持と発展のために選択すべき「良き行為」に貼りつけるラベルである。それは神の命令でも宇宙の法則でもなく、人間の集団が歴史的過程の中で形成してきた価値体系のラベルである。
進化心理学の視点を借りれば、善という概念は、人類が長い時間をかけて獲得した社会的生存装置である。宗教はこの戦略を象徴化した装置であり、道徳はその世俗的な延長線上にある。
親鸞の「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」は、善悪の相対性を鋭く表している。善と悪は絶対的な対概念ではなく、共同体内部の秩序維持のための評価ラベルであり、その評価軸が異なれば、同一の行為が善にも悪にも変わりうる。
現代社会では、国家・宗教・地域社会といった伝統的枠組みが弱体化し、人々は複数のネットワーク共同体に分散している。その結果、善の基準は無限に細分化され、相互に矛盾するローカル・モラルが林立している。善が相対化されすぎた結果、「共通善」という概念が失われつつある。
真が命題の共有であるならば、善は行為の共有である。つまり、善とは信頼を媒介とした社会的言語であり、信頼が失われれば善は意味を失う。
第三章 共同体の崩壊と「真・善」の断絶──ポスト共同体社会の病理
現代社会は、真と善を支えてきた基盤である共同体そのものを失いつつある。国家・宗教・地域社会・家族といった伝統的枠組みは形骸化し、人々は「所属」を失ったまま、断片的な関係だけでつながる存在になっている。
SNSのアルゴリズムは、個人の嗜好や信念に合わせて情報を最適化し、結果として人間はそれぞれ異なる真理体系の中に閉じこもる。真理の分断は信頼の分断へと連鎖し、社会全体が「互いに信じられない」状態に陥る。
共同体が崩壊した後に残ったのは市場である。市場は善悪を問わず、すべてを選択可能な価値として等価化する。企業や個人の行動は倫理よりも印象に左右され、善の概念は社会的信号へと退化している。
共同体が崩壊した世界では、人間は自由を得ると同時に孤立する。不安と無力感の中で「確信」を渇望するようになり、そこに登場するのが単純で強い言葉を語る政治指導者やイデオロギーである。彼らは分断された人々に「再び一つの真理」を与えるが、それは疑似共同体である。
この危機を超える道は、単なる「正しい真理」の回復ではなく、グローバル化に抗い、民族や文化、伝統を共有する集団が再び固有の言葉を取り戻すことである。相分離は排他ではなく、異質性を尊重するための秩序ある分離である。
第四章 アメリカという鏡──相対的真理の衝突が国家を裂く
アメリカほど、「真」と「善」の分裂が可視化された社会はない。かつて自由と信仰によって結ばれた共同体は、今や異なる真理体系の断層に沿って分裂している。
現代アメリカには、「信仰共同体」と「合理共同体」という二つの異なる真理体系が存在する。前者は神の秩序を、後者は人間の理性を信じる。互いに相手を誤謬ではなく異端とみなし、その対立は論理ではなく世界観の非互換性に根ざしている。
SNSはこの断層を拡張し、信念を共有する群れがデジタル空間に閉じこもる。人々は情報を検証するのではなく、信仰する。この「デジタル信仰」が、現代アメリカにおける新しい宗教的秩序を形成している。
国家は本来、異なる共同体間の調停者であったが、今のアメリカでは国家そのものが戦場となっている。それぞれの共同体が自らの「善の体系のラベル」を国家に刻印しようとしている。
アメリカの分裂は、グローバル化の矛盾の到達点でもある。かつて普遍的価値を輸出してきたこの国が、今や自らの内部で普遍性を失っている。それは「意味のグローバル化」と「価値の相分離」が同時に進行することによって生じた混乱であり、近代合理主義の終点としてのアメリカの姿である。
アメリカは今、一つの国家の内部で、複数の精神的共同体が分立し始めている。しかし、この分裂は終焉ではなく、新しい共同体の胎動でもある。民族・宗教・価値観によって再編される新たな秩序の萌芽がそこにある。
結章 共同体の権利と沈黙の倫理──真と善の再構築に向けて
真と善は普遍ではなく、共同体において相対的に成立する。しかし各共同体の言葉は翻訳不可能であり、その不可侵性を前提として共存しなければならない。このとき、個人に人権があるように、共同体にもその存在を保障する基本的権利が必要となる。
共同体には、自らの言葉・信仰・倫理・記憶を保持し、他者から侵されない権利がある。それは主権であり、沈黙の中に表現される。沈黙とは理解の欠如ではなく、他の共同体の主権を侵犯しないという相互不可侵の作法である。
この考え方は、国家主権を超えた新しい倫理の形を示している。個人が尊厳を持つように、共同体にも尊厳がある。異なる真理や善が並立する世界では、同意ではなく承認が重要になる。他者の真理を受け入れなくとも、その真理を語る権利を認めること。
普遍性とはもはや全員が同じ言葉を話すことではなく、異なる共同体が互いの沈黙を尊重することにより成立する。この限定的普遍性こそが、グローバル化の次に来る秩序の原理である。
言葉の終わりに訪れる沈黙の中でこそ、他者の真理と自らの真理が共に在ることを知る。それは理解ではなく、共存の知である。人間が再び真と善を取り戻すとすれば、それは沈黙の尊厳の中においてであろう。「我ら語る、ゆえに世界は在る。」──ただし、語り得ぬものを沈黙のうちに抱きながら。
(本文章は、2020/12/31の記事「真と善の相対論とその応用」をOpenAIのChatGPTの協力で全面的に書き換えたものです。)