1. 三面等価の原則とその仕組み
経済学では、国内で生産された財やサービスの総額(GDP)は、国民が得た所得の合計、および国民が支出した総額と一致するという「三面等価の原則」がある。この原則が成立するのは、会計上すべての生産物と所得が何らかの「支出」として計上されるように仕組まれているためである。
たとえば、企業が生産した商品が売れ残った場合、それは「在庫」として残るが、在庫の増加は企業による投資(在庫投資)として支出に含まれる。同様に、家計が貯蓄したお金は銀行を通じて企業などに貸し出され、やはり投資として計上される。こうして、見かけ上は「生産=所得=支出」が常に一致するのである。
しかし、この一致はあくまで会計上のものである。在庫は長く放置されれば価値が下がり、翌年度の会計において減損処理を行う必要がある。過剰な在庫は資源の浪費であり、次年度の生産計画を縮小せざるを得ない
また、貯蓄も過剰になるのは、消費や投資に円滑に向かわないことを意味し、上図の矢印が示す循環が滞り、経済の停滞を招く。したがって、経済が持続的に循環し、国民が必要な物資を安定的に得るためには、過剰な在庫や過剰な貯蓄を抱えず、適度な流動性を保つことが重要である。
貨幣は社会を循環してはじめて意味を持ち、単なる貯蓄としての過度な停滞は、血液が流れを失うように経済の生命力を奪ってしまう。
2. 世界経済における「赤字国」の役割とそれを拒否するトランプ
経済の健全な循環を維持するには、世界全体でみて消費と投資がバランスを取らなければならない。国内の三面等価が成立するのと同様に、国際経済においても「一国の貯蓄超過(黒字)」は、他国の「過剰な消費と投資(赤字)」によって支えられている。
この意味で、戦後の世界経済では、米国が恒常的な経常赤字を引き受けることで、他国の黒字=成長を可能にしてきたといえる。つまり、米国の家計と企業が旺盛な消費・投資を続けることによって、日本やドイツ、中国などの輸出主導型経済は生産を拡大し、所得を増やし、国内に雇用を生み出してきたと言える。
米国の赤字は単なる浪費ではなく、世界経済を回す「最終需要」の供給源であり、国際的な三面等価の均衡を保つための「潤滑油」であったともいえる。ところが、近年のトランプ政権をはじめとする「アメリカ・ファースト」的政策は、この構造に明確な転換をもたらそうとしている。
すなわち、米国がこれ以上「世界の赤字国」を引き受けることは、不可能となってきたと現政権が考えているためである。世界経済における米国のシェアが縮小してきたことが主要な原因の一つである。そこで、「自国のバランスを取る」方向へ舵を切ろうとしているのである。
この政策は一見合理的に見えるが、グローバルな経済循環においては、需要の受け皿が失われることを意味し、結果的に世界的な需要不足とデフレ圧力をもたらし、それが米国内にも波及する危険が高いので、他国が対応する時間的余裕を置いて、慎重に行ってもらいたい。
トランプのMAGA(アメリカを再び偉大に)政策を反グローバリズムとして賞賛する向きも多いが、これまでの経済の発展は国際分業とグローバルで自由な経済交流(つまりWTO体制)に負うところが非常に大きかったので、行き過ぎた孤立主義が世界に広がることは経済に大きなマイナスである。
従って、反グローバリズム運動を進める人たちは、主権国家体制を守り特定の政治権力のグローバル展開に反対するという運動に限定するべきである。WTO体制と主権国家体制の矛盾点、例えば安全保障に関する国内産業の保護などは、WTOにおいて論理的に主張するべきだと思う。
3. 日本が取るべき新しい経済モデル
日本は長らく、貯蓄超過国=黒字国として、米国の赤字構造に依存してきた。もし米国がその赤字を縮小すれば、日本の輸出依存型モデルは縮小を迫られる。このとき日本が採るべき道は、国内での「赤字を引き受ける主体」を育てることである。
先ず、政府が将来への公共投資・科学技術投資・社会保障投資を拡大し、民間部門の過剰貯蓄を吸収する形で需要を創出することである。企業や家計が過剰に貯蓄し、消費や投資を控えるとき、政府がその「反対側」に立たねば経済循環は止まる。
米国が世界経済の「最後の買い手」である時代が終わりつつある今、日本は、国家が国内の赤字を意図的に引き受け、資金を未来の成長基盤へと循環させることが、今後の日本経済における重要な課題となる。
それは単なる財政拡大ではなく、社会の生産力、生活の質、政治の質を高め、将来の経済をより健全化するためでなくてはならない。将来の富を先取りして消費するのではなく、将来の富を生み出すための土壌を耕すものでなければならない。
ただし、日本が自国の赤字によって経済循環を支えるとき、無制限な財政拡張は許されない。
なぜなら、日本は食料やエネルギーを海外に依存しており、通貨価値の下落はただちに国民生活の基盤を脅かすからである。
長期的且つ過度な財政赤字は、日本円の信用を低下させ輸入物価の上昇を通じて食とエネルギー購入すらままならない円安地獄を作り出す。すなわち、政府が引き受ける赤字を「消費的支出」ではなく、科学技術、人材育成、食料・エネルギーの自給体制、災害対応インフラなど、長期的に国民生活の安全と競争力を支える分野に的を絞るべきである。
また、財政運営を監視する独立機関や、マネタリーベースと国債発行の連動を制御する制度的枠組みなど、財政規律を支える仕組みが必要である。財政拡大は「無限に可能」ではなく、通貨への信頼を維持する範囲で、最大限に有効活用する技術が求められる。(追補)
結論として、日本に必要なのは、支出を恐れる縮小均衡の発想でも、放漫財政による通貨価値の破壊でもなく、「将来への投資としての赤字」と 「通貨の安定を守る規律」の均衡点を探る知恵である。
米国が財政再建に乗り出した今、それが日本が自立した経済循環を築くためのカギとなる。
追補)現在すでに通貨の信用維持と積極財政が両立しない情況に非常に近いかもしれない。財政拡大はインフレ率の上限を設定して行うべきだろう。(10/9/21:15)
4. 日本の文化的壁と政治的課題 ― 経済循環を妨げる心理の構造
しかし、問題は財政運営の技術や制度設計だけではない。根本には、日本社会そのものが抱える深い心理的・文化的構造が存在する。それは、過度な貯蓄志向と、政治への不信、そして変化への慎重すぎる姿勢である。
日本人は戦後長らく「将来に備えて貯める」ことを美徳としてきた。この行動様式は勤勉と節制の象徴として経済成長を支えたが、現在では逆に**経済循環を阻害する「貯蓄の壁」**となっている。
家計が貯蓄を積み上げ、企業が内部留保を膨らませ、政府がその資金を吸収しても、有効な需要が生まれなければ経済は動かない。
この構造の背景には、国民の根深い政府不信と、将来に対する漠然とした不安がある。本来、将来を心配するならば、貨幣を死蔵するのではなく、より良い社会と人生を築くために資金を循環させる知恵が必要である。
安心して消費や投資を行える社会とは、政府と国民の間に信頼の契約が成立している社会である。
ところが現在の日本では、政府の指導層が積極財政派と均衡財政派に分裂し、互いの議論に耳を傾けず、国民への説明責任を十分に果たしていない。
この知的・政治的貧困こそが、国民の不信を強め、さらに貯蓄を増やすという悪循環を生み出している。したがって、財政規律の確立や経済循環の再生には、単に金融・財政政策を超えた、教育と政治文化の刷新が不可欠である。
教育は、未来への不安ではなく、未来を創る能力を育てるものでなければならない。政治は、恐怖や不信を利用するのではなく、国民に「信頼して資金を流す勇気」を与えるものであるべきだ。信頼を取り戻し、国民が貯蓄を投資と消費へと循環させるとき、日本経済は初めて真に自立した力を取り戻すだろう。
教育は未来を恐れる心を育てるのではなく、未来を創る力を育むべきである。政治は国民に節約を説く前に、信頼できる政策と責任を示すべきである。そのとき初めて、日本人は貯蓄を安心して投資と消費に転じ、経済は「信頼を基礎とした循環」へと回帰するだろう。
結語 ― 経済の問題は、信頼の問題である
経済は、貨幣と財の流れの問題であると同時に、人と人との信頼のネットワークの問題でもある。そもそも経済システムとは、人々が互いに助け合い、生産したものを分かち合って生活するために生まれた社会的仕組みである。
在庫が滞り、貯蓄が動かないのは、単に数字の問題ではなく、心の交流が失われているからだ。信頼が生まれれば貨幣は動き、貨幣が動けば経済は蘇る。今、日本に必要なのは新たな金融理論でも巨大な公共事業でもない。国家と国民の間にもう一度、信頼を取り戻すこと。その信頼こそが、貨幣を動かし、人を動かし、未来を動かす原動力となる。
(本稿の構成と表現の整理にあたっては、ChatGPTの助言を参考にしました。)