1993年細川連立政権は55年体制が始まってから38年ぶりに自民党から政権を奪った、1994年日本社会党党首の村山富市氏が内閣総理大臣になり、その内閣は1年以上続いた。また、2009年9月民主党代表が総理大臣となり、それから2012年12月まで民主党内閣が続いた。
それらの連立政権や野党政権下でも日本の政治は特に何も変わらなかった。非常に印象的なのは、社会党は現実に合わせるために安保容認と自衛隊合憲に党の路線を変更するに至った。結局、日本社会党は分裂後消滅し、一部は日本社民党と名前を変えて今に至っている。
日本社会党や日本社会党から大勢が合流した民主党が政権をとっても、日本を社会主義の国にすべきという議論は全く出なかった。しかし、「不思議だ」とか、「何をしとるんだ」とか、不平不満や疑問の声はあっただろうが、それ以上の行動などは無く、いつの間にか過去の話となった。
繰り返しになるが、日本社会党は安保条約に反対し、非武装中立を党是としていたが、政権についた途端に日米安保容認及び自衛隊合憲へと方針を転換した。歴史認識を明確にしたと細川氏が自慢しても「あれは侵略戦争だった」と安物のラベルに張り替えただけで、歴史に学ぶ政治というレベルからは程遠かった。
あの戦争は何故起ったのか、何故負けたのか、何故300万人余が死亡したのかなど、国民が期待する議論は皆無だった。国民の意見が政治に反映されないとして、選挙制度をいじくって小選挙区制を導入したが、政治は変わらなかった。そして政権は再び自民党に戻った。
野党政権で政治が変わらなかったのは何故か?その重要な議論はマスコミ報道に乗らなかった。これら野党政権の実現の時の回顧記事がNHKによって書かれているが、本質論からほど遠い内容が延々とつづいている。多分意図的にこのような記事を掲載したのだろう。 https://www.nhk.or.jp/politics/articles/feature/101472.html
政権交代しても、政治家を入れ替えても日本の政治は本質的に不変である。それは日本国を運営しているのは政治家ではなく、霞が関の官僚組織だということを意味している。そして官僚組織に圧力をかけることが出来るのは、日本の政治家ではなく米国である。
岸田政権の時、ウクライナへの1.7兆円を超える支援金(補足1)やLGBT法案制定が国会で殆ど何も議論されずに決定された。テレビや新聞は事実だけで、ウクライナ戦争の本質が米国によるロシア解体の企みであるという事実(補足2)を隠した。LGBT法制定の必要性について日本文化との関連で議論した跡はどこにもなかった。
「政権交代しても、政治家を入れ替えても日本の政治は本質的に不変である」という重要な事実、つまり国民が与党の政治に不満を持って野党を政権につけても政治が変わらないことが明らかになっても、一時的に議論になったものの直ぐに何もなかったかのように静かになった。
その一つの理由は、日本国民に市民革命の記憶が無いからであり、地理的及び言語的に隔絶されている日本では諸外国の政治の実態を知ることがなかったからである。 もう一つは、国民の不満と怒りは与野党議員やマスコミまでを含む緩衝装置によって吸収されてしまうからである。
野党政治家は国民の声を聞き、政治の是正を約束し、且つ与党の政治を批判する。政治評論家はそれをマスコミで喋る。国民は、国政選挙で票を野党に入れて与党にお灸をすえた気になる。国民はそれで一定の満足を得るようだ。この政治システム全体が緩衝装置なのだ。
野党が政権をとっても何年経っても何も変わらない。忘れっぽい国民は、テレビのスポーツ番組やバラエティショーを見たり、クイズ番組や災害や事件の報道の中でやがて忘れてしまうのである。
日本には民主主義政治の欠片も存在しない。国民の不満や怒り、それに基づく政治への圧力は国会議員選挙までであり、選ばれた政治家も実際の政策決定には、無力且つ無関係なのだ。テレビタレントや明治以来の家業を継ぐ政治屋たちは、安心して選挙運動で賃金上昇や物価安定の約束が出来る。
そのような政治文化の中で、日本の国会議員の多くは知識や能力を欠く。永田町で政治を演じる役者に過ぎない。彼らは歌舞伎役者と同様、家業として政治家を代々継承する日本の貴族階級である。これまで国政選挙は、国民に政治に参加したつもりになってもらう為の儀式であった。
かれら政治役者たちが既得権益層なら、彼らに国会質疑という演劇用台本を書く霞が関の高級官僚たちも既得権益層である。彼らの官僚退職後の優雅な生活は良く知られている。国会議員の他、財団理事とか、会社相談役とかで多額の給与や退職金を貰うことになっている。政治家が本来の能力を持ち、この体制が破壊されれば困るのである。https://imidas.jp/jijikaitai/c-40-041-09-03-g058
日本が経済対策を本気でやるのなら、これら既得権益層をなくすことだ。それは正しい政治改革であるだけでなく非常に大きな経済効果を発揮するだろう。それら財団や会社に与える直接的効果の他に、日本から貴族階級が無くなることで、社会は徐々に実力本位となるだろう。
日本社会の古い文化からの脱却は、会社の人間関係も封建的な上下関係から民主的機能体の人間関係になる。機能体の関係では、情報の流れにおいて下流に居る者の身分が下というわけではない。どちらも必要不可欠な部分として機能体を構成するのである。(補足3)
その他、労働流動性拡大や大学のレベル向上などが続くだろう。情報伝達が上位下達型から水平型&共有型となりスムーズになる。議論を避ける風潮もやがて無くなるだろう。日本経済の低迷の根本原因は、現在の日本文化にあるのだ。
2)米国との比較:
日本では、政府の政策やその為の国会での質疑応答と言っても、ほとんどを官僚が立案し作成する。そのため、国会委員会などでの質問は前日までに提出することになっている。そして、国会が始まると答弁書作成のために霞が関の官僚が夜遅くまで仕事をすることになる。
政府側委員は官僚が作成した答弁書を読むだけである。そのため議論の往復回数は少ない。自力では質疑を継続できないからである。野党議員の質問には適宜、委員会に参加した官僚が、与党政府委員に代わって答える。
首相記者会見なども、短い時間の形式的なもので儀式的に見える。記者たちも、記者クラブをつくり外から一匹オオカミ的に乗り込んでも無視されることが多いようだ。そして、首相が答えるのに困難な質問は避けるようだ。そんな光景を見ても国民は特に不思議には思わないようだ。
一方米国では質問を事前通告などしないので、ぶっつけ本番の議論となる。知性や知識がなければ、勤まらない。米国は大統領制であり、行政府高官が議会に出席するのは「証人」としての供述の為であり、日本のような予算員会などで答弁することはない。この場合は、通常供述前に宣誓を行う。
そのような言論空間で育つからか、米国の政治家には優秀な人が多い。それでも政治家一人の能力は限られるので、政治家として質を上げるため、連邦議員は少なくとも数人の政策スタッフ(legislative aides)を持っている。その予算は連邦予算から支給される。当然、会計報告は厳格に審査される。(補足4)
連邦議員たちは、自分の政治に関する考え方を日々磨き上げているので、そのまま大統領に立候補できるような人物がたくさんいる。彼らの議論は、自分の言葉で進行するので、非常に長くなることもある。大統領記者会見が2時間以上も続くこともしばしばである。(補足5)
米国の議論は何かを解決するため、或いは意見の相違を超えるための本音の議論である。従って、日本のように予め言い逃れを工夫する時間的余裕を相手に与えるようなことはしない。日本での議論は、馴れ合い的なものであり、相手を困惑させたりすることはない。
その証拠は、長年自民党と反対のことを言ってきた日本社会党の委員長が総理大臣になった途端、公式見解まで変えることになったことである。民主党政権下でも、民主党鳩山党首と重鎮の間に意見の相違があってもそれが議論で解消されていなかったことが、「最低でも県外」発言後の右往左往で分かる。
日本の総理記者会見は普通短い時間を割り当てて中途半端に終わる。最後に「スケジュールがありますので、これで終了します」と司会役が言う。総理大臣にも司会役にも、記者の背後に居る筈の1億人あまりの国民など全く目に浮かばないようだ。これ等の光景を不思議に思わないのは、国民が政治に参加したことがなく、「民主主義政治」を見たことがないからである。
3)参政党に対する期待と危惧
参政党は日本で初めての民主主義実現を目指す政党である。党員のかなりの人たちは、政治に参加すべく日常的に関わっているだろう。党首の神谷宗幣氏は、吹田市議時代から国会議員を目指して研鑽を積んだように見えて、日本に本格的な政治改革を訴えている。
しかし、党首といえども一人の人間であり、能力は限られる。思想・歴史的問題には熱心だが、マクロ経済、金融、財政、国際通貨制度といった経済的構造への理解が弱い。その為、財政問題については党内の二人に頼ってしまい、安易な積極財政論を採用している。
その結果、今回の参議院選では大勝したのだが、大規模財政出動で市場の信認が揺らぐと、国債金利上昇・円安・インフレ誘発のリスクが生じるが、それは参政党崩壊のリスクでもある。テレビの番組でインフレリスクを指摘した橋下徹氏に、神谷氏はM氏とA氏への丸投げを匂わせて逃げるしかなかった。https://www.youtube.com/watch?v=CCxdI522U_Q
この二人の積極財政論者は、米国のMMT理論の変形を主張し、お金が降って湧くような話をしている。お金は日々額に汗して稼ぐものだという原点を忘れている。国債を発行しても、それは国民の財産になるのだという類いの一面の真理を全面的真理のように言っている。
日本の経済復興は日本の労働文化や経営文化に原因があり、政府の政策が立ち入る予知はあまりない。これは自民党総裁選で河野太郎氏も言っていたことである。なんとか多くの知性を集めて、この初期の壁を乗り越えてもらいたい。
その為には、現在の主要スタッフとは反対の意見を持つ人物の参政党への参加を求めるべきである。「日本人ファースト」に難癖を付けない人なら、党員ではなく党友としての参加依頼をしてはどうかと思う。
補足:
1)令和6年12月の岩屋外務大臣会見記録による。https://www.mofa.go.jp/mofaj/press/kaiken/kaikenw_000001_00112.html
ロシアのウクライナ侵攻がなぜ起こったのか、日本がウクライナ支援をなぜしなければならないのか、どの程度の支援が必要なのか、その使途はどのようなもので、その成果がどの程度だったかなどについての十分な発表・議論がなされていない。
2)ウクライナ戦争の動機はロシアの対NATO防衛であった。このことはロシアのウクライナ進攻の一週間以上前に本ブログに投稿している。
3)例えば人の頭の細胞が肝臓の細胞より偉いわけではない。会社の人事部局が製造部局より偉いわけではない。どちらも機能体のいち部分として重要なのである。
4)この政治システムをまねたのか、村山政権時代の大失策である政党助成金制度(1994年に法制定)である。 自民党は無知な村山氏を利用して、政党トップが自由に配分できる政党助成金制度を作った。これは、議員個人が自由に意見を述べることを妨害し、自民党幹部である政治貴族の支配力を強めることに貢献した。益々、議員個人の政治能力が育たなくなったのである。
5)この政治文化的・制度的な違いについてAI(copilot)が整理してくれた比較を以下に示します。
米国:
- 報道の自由と対話文化が根強く、記者が大統領に直接鋭い質問をぶつけることが許容される。
- 会見は「説明責任の場」であり、国民との対話の延長線として位置づけられる。
- ホワイトハウス記者団は多国籍・多様なメディアで構成され、質問の切り口も幅広い。
- 大統領自身が長時間応じることで、健康状態や政策への自信を示す意図もある。
日本:
- 記者会見は「発表の場」としての性格が強く、一方通行的な情報提供になりがち。
- 質問は記者クラブ所属の記者が中心で、事前に質問内容が調整されることもある。
- 総理の発言は慎重で、失言リスクを避ける傾向が強いため、会見時間も短くなる。
- 会見後の「ぶら下がり取材」などで補完されることもあるが、公式性は低い。
(明朝、再度校正)