ヤフーブログから引っ越して3年になる。読者も入れ替わっているので、以前書いた記事の中から“お勧め”を紹介することにした。今回の再掲記事は、「孝明天皇を祀る官営神社がなかったのは何故なのか?:孝明天皇暗殺説と明治天皇すり替え説」(2017年10月)である。拙い文章も多かったので、今回この記事を全面的に書き替えて新たな投稿とした。

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政治を考える上で、国家の成り立ちの経緯を理解することは非常に大事である。現在とるべき政策は、将来の日本の方向を考えて定めるのだが、その為に必須なのは「過去の歴史の延長上にある現在の日本」が十分理解されていることである。しかし、日本国だけの事ではないかもしれないが、時の権力は国家の歴史を隠し、国民から正常な歴史感覚と政治における理解力&判断力を奪っている。

 

日本の近代を知る上で、明治維新の理解は非常に大事である。しかし、そこに大きな歴史の捏造が行われた疑いが存在している。(補足1)2年前に、それまでに読んだ本などから、明治維新について自分の知識を整理し、その件についてもブログ記事として書いた。https://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/42241483.html
https://ameblo.jp/polymorph86/entry-12466514404.html

 

今回焦点を当てるのは、愛知県知多郡武豊町にある寂れた神社、玉鉾神社である。そこは、薩長に協力した下級貴族(岩倉具視など)に暗殺されたかもしれない、孝明天皇を祀る神社である。暗殺説が流れた理由は、薩長の下級武士たちが中心となった倒幕運動において、孝明天皇は最も邪魔な存在だったことである。(補足2)

 

一民間人である旭形亀太郎という人物による玉鉾神社の創建に至る話は、孝明天皇暗殺説や明治天皇すげ替え説をサポートする”情況証拠”のように思える。旭形が創建を願い出たのは、新政府が孝明天皇を祭祀する神社を作らなかったからである。そればかりか、明治政府は孝明天皇のための神社創建作を妨害し、そして出来た玉鉾神社を冷遇した。孝明天皇が明治天皇の実父なら、それは異常なことである。

 

新政府側が孝明天皇を祀ったのは、1940年(昭和15年)になってからであり、しかも平安神宮の祭神に加えるという形だった。それと対照的なのは、明治天皇の祭祀である。明治神宮が創建されたのは、大正9年11月1日であり、それは天皇没後8年、皇后の没後6年のことである。

 

孝明天皇を祀る神社が無いことを悲しみ、その創建を願い出た旭形亀太郎という人物は、幕末の文久3年に宮中警備隊長になり、蛤御門の変では玉座の守備にあたった人である。(補足3)長い間の運動で漸く正式にその許可がなされたのは、明治32年のことであった。ただし、祭祀されているのは孝明天皇だけではなく、神話時代の神が含まれているとのことである。https://ameblo.jp/zonebalance/entry-12085958158.html

イメージ 1

2)玉鉾神社の社格

 

玉鉾神社をグーグルマップでみると、まともな駐車場も無く、アクセスも悪いように思う。元天皇の神社であるにも拘らず、神宮と呼ばれない寂れた神社である理由は、その維持管理に国家から何の援助もなかったからだと思われる。

 

明治中期以降、日本の神社は社格制度で分類され、それに従って一部は国家から支援をうけた。その社格による分類は、官社、諸社、無格社である。官社は神祇官が祀る官幣社と地方官が祀る国幣社に分けられ、夫々に大、中、小に分類されていた。その中で、玉鉾神社は最低の無格社だった。無格社に支援金は出ない。(補足4)

 

武豊町のホームページには何の紹介記事もなく、http://www.town.taketoyo.lg.jp/contents_detail.php?co=cat&frmId=874&frmCd=4-2-10-0-0

武豊町史の中に他の神社の詳細な記事と比べて、ほとんど何も書かれていない。現政府にまで遠慮して、詳細な記述を避けていると思うのは考えすぎだろうか。

http://www.geocities.jp/kamankara/text/documents/d-tak.html#玉鉾神社

 

3)玉鉾神社の謎と”明治維新”

 

これらのことを知れば、今まで不思議だったことの説明が簡単に出来ることに気づく。その一つは、明治政府に皇室祭祀の主導権が移されると、南朝関係者を祀る神社の創建・再興や贈位などが行われるようになったことである。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E5%8C%97%E6%9C%9D%E6%AD%A3%E9%96%8F%E8%AB%96

 

そして、後醍醐天皇の建武の新政の立役者である楠木正成の像が、現在の皇居(北朝の子孫の宮殿)外苑に設置されている理由も、はっきりと分かる。

 

要するに、天皇を挿げ替えるにしても、どこかの天皇と結びつける必要がある。そこで考え付いたのが、南朝の末裔が即位したという明治神話を作り上げ、それを外堀とすることである。内堀は言うまでもなく、挿げ替え説を退治して秘密を守ることである。天守閣に在るのは、明治天皇の正統性である。

 

孝明天皇までは北朝の末裔である。それ以降も本来なら、その子が天皇を継ぐべきである。しかし、”俗説”によれば、事情があって薩長は長州の田布施村の大室寅之祐を明治天皇に仕立て上げた。つまり上記は、その”俗説”との戦うための壮大な城の構造である。

 

明治天皇の即位は満年齢で14歳の時である。皇子であったときと即位した明治天皇の体格に大差があるという指摘をする記事も多い。また、何故素早く東京遷都をしたのかという疑問も、明治天皇は写真に撮られることをひどく嫌ったという説も、挿げ替え説をとれば簡単に説明できる。

 

実父でないなら、孝明天皇を祀る神社を作らず、作らせず、またできた神社を厚遇しないという不思議も、簡単に氷塊するのである。これらの”俗説や疑惑”については、補足4に引用のもののほか、いくつか本として出版されているようだ。ネット検索してもらいたい。

 

最後に大事な一言を書きたい:

 

明治維新と呼ぶに相応しい日本の夜明けなど無かったのではないのか?江戸時代は暗黒の時代などではなかったのだろう。考えてみれば、今より遥かに地方分権社会であっただろう。そして、未だに明治当初から昭和前半の時代の負の遺産が整理されていないことが、現在の四面楚歌の日本の情況の原点にあるのではないのか。

 

四面楚歌だという根拠は、同盟国の国務省は日本の本格的防衛力増強、核武装、に反対していることでわかる。何れ、ウクライナと同じように消耗品として扱われるだろう。(この部分、11:30 追加)

 

 

補足:

 

1)「明治維新の過ち」を書いた原田伊織氏は、近代史の総括なしに日本の未来はないと言っている。そして、世界は江戸システムに向かっていると書いている。http://manet.murc.jp/thinktank/rc/quarterly/quarterly_detail/201702_16.pdf 

 

2)孝明天皇は江戸の官僚組織を頼りにした。そこで、薩長下級武士たちや岩倉具視などの下級貴族は、病気で数日休んだ天皇とその皇子を暗殺し、代わりに長州の田布施地方出身で長州力士隊の一人(大室寅之助)を明治天皇に仕立て上げたという説がある(有力である)。孝明天皇の毒殺説は、半島一利著「幕末史」も支持している。その本の中に、英国外交官だったアーネスト・サトウの日記には、天皇が暗殺されたと明記されているとある。(幕末史、p260)ただ、半藤氏は明治天皇になる筈だった睦仁親王については何も書いていない。

 

3)旭形亀太郎は力士隊に属し、蛤御門の変で玉座を護った功績により、孝明天皇より天杯等を賜った。下記サイトに、日本相撲協会の『日本相撲史中巻』に、「旭形亀太郎の盡忠」という見出しで、旭形亀太郎について記載しているとある。 

https://www.degucci.com/%E5%A4%A7%E7%AB%8B%E8%80%85%E6%97%AD%E5%BD%A2%E4%BA%80%E5%A4%AA%E9%83%8E%E3%81%AE%E5%B0%BD%E5%BF%A0%E3%81%A8%E7%8E%89%E9%89%BE%E7%A5%9E%E7%A4%BE/

 

4)なお、太田龍著「天皇破壊史」という本には、伊藤博文が玉鉾神社に弾圧した旨の記述がある。(P108)他に文献として、落合莞爾著、「南北朝こそ日本の機密」などがある。

http://simple-art-book.blog.so-net.ne.jp/2015-05-24