芦田愛菜さんの主演する映画「星の子」の完成報告イベントで、「信じる」ことについて聞かれた芦田愛菜さんのコメントが日本だけでなく、中国でも大反響のようだ。
https://toyokeizai.net/articles/-/374895
芦田さんのコメント全文を読んで、「人を信じる」ということに関して、非常に深く考えておられると感心した。(テレビ番組スッキリの紹介動画で見た。)
芦田さんの言葉を味わう前に、先ず明確にしておきたいことがある。それは、信じるとか裏切られるとかの評価の対象となる人物は、自分にとって非常に大事な人物であるということである。そして、その人物を信じるというのは、「自分の人生にとって、大きなプラスの影響を与えてくれる人物であると確信すること」であり、裏切られるとは「その信頼にも拘らず大きなマイナスの影響を受けてしまった」という意味である。勿論、ここでのプラスとかマイナスという評価は、多分に主観的なものである。
続いて、哲学的な芦田愛菜さんの言葉を、幾つかに分けて先ず考えてみる。
「『その人のことを信じようと思います』っていう言葉ってけっこう使うと思うんですけど、『それがどういう意味なんだろう』って考えたときに、その人自身を信じているのではなくて、『自分が理想とする、その人の人物像みたいなものに期待してしまっていることなのかな』と感じて」
誰でも対象が大切な人なら、その人に対する理解を「その人の人物像」として心の中に造りあげる。その人物像は、自分が今まで見たその人の部分だけでなく、背後から見た部分も含まれる。更に、それは人形のようなものではなく、その人の行動パターンも含む自分の心の中に生きているその人の全体像である。上記芦田さんの「その人物像みたいなものに期待してしまっている」という言葉は、その人の生きた像を心の中に作り上げたという意味である。
「だからこそ人は『裏切られた』とか、『期待していたのに』とか言うけれど、別にそれは、『その人が裏切った』とかいうわけではなくて、『その人の見えなかった部分が見えただけ』であって、その見えなかった部分が見えたときに『それもその人なんだ』と受け止められる、『揺るがない自分がいる』というのが『信じられることなのかな』って思ったんですけど」
その人が、自分が作り上げた心の中の人物像(モデル)に基づいた行動のシミュレーションと異なる行動をとった時、自分はその違いの程度に応じた困惑を感じる。その行動が、自分にとって非常に大きなマイナスの方向だった場合、「裏切られた」とか「失望した」という言葉が出るのだろう。ここで、『それもその人なんだ』と受け止められる場合、自分の心の中の人物像(行動パターン)をいくらか修正することになる。
その場合は、たとえそれが自分にとって多少のマイナスであっても、その人と自分の関係に大きな影響はないだろう。それが自分にとってプラスであれば、そのこころの中の人物像の修正作業は、容易且つ楽しいことになるだろう。
自分にとって大事なその人との関係が揺るがないように、その人を良く理解して、心の中の「その人の生きた人物像、モデル」を作りあげることが「その人を信じること」につながる。従って、ある人(生きた人物だけでなく、例えばイエス・キリストなども)を信じることが出来る人は、人物に対する理解能力が優れているのである。
ところで、その人と自分は、例えば親子とか兄弟とかの大事な関係にある。それは、その相手の人も自分が行ったように、こころの中に自分の生きたモデルを作り上げていると考えるのが自然である。また、自分にプラスになることとその相手の人にとってプラスになることは、(自分とその相手の人との)共有空間では共通する場合がほとんどだろう。
従って、自分が相手の人に理解できる人物になること、そして相手の人に自分が理解できる人物になってもらうことは、互いのプラスを大きくすることにつながる。それはお互いの話し合いによって為される筈である。その努力のエネルギーを哲学者「エリック・フロム」が愛と呼んだのだと思う。(補足1)
「でも、その揺るがない自分の軸を持つのは凄く難しいじゃないですか。だからこそ人は『信じる』って口に出して、不安な自分がいるからこそ、成功した自分だったりとか、理想の人物像だったりにすがりたいんじゃないかと思いました」
この最後の部分は今ひとつ私には理解できないのだが、恐らく上記最後のセクションに書いたことを言いたかったのではないだろうか。(補足2)
人生は、人と人が組んで行うゲームなのだから、自分のチームメイト(性格や得意技など)を良くしること、互いに心のなかに相手のより正確な人物モデルを作り上げることが、大きなプラスを生むために大事だと思う。揺るがない自分の軸というより、自分と相手の間に確固とした軸を作り上げることが大事だろう。
(20:50最後の節を加筆修正;21:00 補足2追加)
補足:
1)大学の教養部のときの英語の教材は、哲学者エリック・フロムの「The art of loving(1956)」(邦訳:懸田かつみ、「愛するということ」紀伊国屋1959)であった。このartは、人間らしさという意味を含む。日本語では簡単に芸術と訳するが、英語圏では、artはnatureに対する言葉である。キリスト教的世界観では、この世界は人と自然が別々に創造され、人は神の形につくられたのである。その人の持つ性格としてartがあるのだ私は理解している。
2)「揺るがない自分の軸を持つ」の意味は、相手がとんでもない人物だった場合には、そこで相手を自分の領域から排除することでなくてはならない。それは相手を信じることを止めることになる。このあたりがわかりにくい理由である。つまり、日本人は「信じる」という言葉とその行為を、絶対的な美として信仰しているように見える。それは日本人の言語活動特有の言霊信仰の一つだろう。