今週、以下の記事が何人かに読まれていた。丁度一年前の9月13日に本ブログ・サイトに書いた文章である。再読してみて、日本の政治システムの不思議というか不満点について、短い文章を書くことにした。以下のリブログの記事を飛ばして、先ずは、本文を読んでもらいたい。その後、リブログの記事に戻ってもらえればと思います。
あれから一年経って、再びプレイヤーは異なるが同じような場面になった。
岸田文雄氏、高市早苗氏、河野太郎氏という3名の候補者が、自民党総裁選を戦うことになった。選ばれた方が次の内閣総理大臣となる。3名の考え方についてのコメントは、次回のブログ記事として書きたいが、ここではこの政治制度について短いコメントを書く。
自民党員の投票だけで何故内閣総理大臣が決まるのか、そのような制度のままで納得している日本国民の気持ちがわからない。非常に不思議である。私は、総理大臣は自民党総裁とは別に国民全ての意見を吸い上げる形で、つまり公選で、決定すべきだと思っている。米国大統領選のように、選挙人を選挙する方法の方が良いかもしれない。
日本の総理大臣を選ぶ制度は、実は共産党支配の中国に似ている。中国では国家主席(日本の首相に当たる。中国の首相は二番目のポジションで実権はあまりない。)には、日本の自民党総裁に相当する共産党総書記がなる。
今回の菅総理の退任劇を見ていると、権力の在り処は内閣ではなく自民党であることが判る。日本では誰が何大臣になるかについても、自民党の幹事長が隠然たる力を持つ。政策には恐らく自民党の三役や各派閥の長が大きな影響力を持つだろう。
これに相当する中国の制度は、中国共産党の中央政治局委員(その中の7人が乗務委員と呼ばれ、中国の政治中枢である)が各大臣よりも大きな政治力を持つことである。例えば中国の外交トップは、外務大臣である王毅ではなく、共産党で外交を担当する中央政治局委員の楊潔篪である。
中国ではこのことが周知されているが、日本では与党の力は隠然たるもので、わかりにくい。
日本では、立法の方も実質与党が行う。殆どの法律案は、自民党(+公明党)と直結した内閣が提出し、議会はそれを通過させる儀式の場である。国会が儀式の場であることは、国会の予算委員会の審議の内容と予算案の中身を比較すれば一目瞭然である。予算委員会では、何かトピックを絞って質疑のフリをして纏まりのないおしゃべりをする。その儀式の後、分厚い予算書の案を一括決議するのである。
みなさん、如何でしょうか? 総裁に誰をするか、誰がなるかよりも、本当はこの制度の改革が大事ではありませんか?
ーーー 終わり ーーー