1)善悪には公的な善悪と私的な善悪(以下、助詞「な」は省略)の二つの側面があると考えると、社会の乱れとその原因が解析しやすくなると思う。公的善悪とは、学校や家庭などでの教育の場で語られ、我々の人格の中に入力されるべく存在する善と悪の体系である。それは、我々が所属する公的空間、つまり社会に存在し、社会の構成員に対して一定の圧力を持つ。一方、私的善悪とは、我々個人の心の中に作られた善悪の体系である。
 
私的善悪が、心の中に作られ存在するということは、その善悪と心の中の好みとが一致するということである。従って、嫌々ながら従う善悪の基準が社会にあった場合、それは私的善悪としては組み込まれていないのである。(補足1)この私的善悪と公的善悪は、DNAの二重螺旋のように相互作用しながら存在する。
 
公的善悪はその地方(国)の文化の中に存在し、社会の構成員の私的善悪の中で共通するものが、何らかのメカニズムで移入され、或いは変更される。私的善悪は、上に述べたように、教育機関などにおいて公的善悪の中から移入される場合と、父母や周囲の人間の私的善悪から移入される場合の、主として二つの道筋で作られ変更されるが、その過程は私的好みや性向により影響を受ける。
 
公的善悪と私的善悪の間には、必然として合致しない部分が存在する。その差異(ズレ)には、生命としての本能が関係している部分、その人間の所属社会における位置、性差年齢、健康状態などに関係した部分があるが、夫々を分析すれば一定の規則性がある筈である。
 
社会の安定性や信頼性は、①公的善悪の枠組みがその社会にしっかりと根付いていること、②公的善悪の枠組みが社会の隅々まで行き渡っていることで確保される。①は、その社会に所属する人間が、概ね公的善悪からの移入により私的善悪を構築していること、それと同時に公的空間を意識しているかどうかにかかっている。②には、社会の不均一性があまり大きくないことが要求される。
 
以上、今回序論のみアップロードする。詳細な議論は出来れば今後引き続き行いたい。
 
2)序論にエピローグはおかしいのだが、この私的及び公的という二つの側面を持つ善悪の考え方を思いついたプロセスについて、整理せずに書いてみたい。つまり、このようなことを書こうと思ったのは、以下の出来事を見聞きし、経験したからである。
 
この2日ほど、学校の宿題をメルカリなどで販売している人が居るという話が話題になった。この話を、カール・ポランニーの著書「大転換」の中で引用された「悪魔のひき臼」という言葉で、社会の大きな変化と捉えて話をしている人がいた。    

 

また、15年以上前になるが、子供の同級生が学校(私立進学校)のテストの時間に、自分の苦手な科目の回答を教え合うという不正行為の約束をしたという話を聞いていた。その不正の中心にいたのが、帰化人ハーフの女の子だった。
 
それとは直接関係は無いが、日本国の政治における脆弱性の原因として、この国には現実主義が根付かないことがあると思う。現実主義の反対が理想主義である。その、虚しい理想主義を唄ったのが、私が最も評価する歌手であり詩人(作詞家)である、井上陽水の「わかんない」である。
 
そこで歌われたのが、宮沢賢治の詩「雨ニモマケズ」である。http://www.ihatov.cc/monument/034.html 理想主義を現実の中に探したその詩人宮沢賢治の詩である。「そんな馬鹿な」と思っていたのは、ちょっと馬鹿だったのかもしれない。何故なら、その世界を現実に生きている人がいたからである。
 
今月中頃、行方不明になった男の子を探す為に、ボランティアとして参加した男の人が、数十分で簡単にその子供を発見した。その方が、男の子の気持ちを誰よりも理解する能力があったからである。その子の親からの謝礼としてのもてなしを一切拒否したという話を聞き、新鮮な空気を吸ったような気分になった。まさに、プロフェッショナルなボランティアである。
 
宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の主人公のような人が、この日本に実在したことを知り、驚くと同時に心を洗われる気持ちになった。http://news.livedoor.com/article/detail/15168563/ (&そこの引用サイト)

 

補足:
1)例えば、「人の物を盗むこと=悪」という善悪の基準が、私的善悪の中に組み込まれていれば、その人は「窃盗などしたくない」と思うし、窃盗犯を憎み蔑む感情がある筈である。しかし、生命としての本能は、飢えて生死の境界を意識したときには、人のものを盗っても食べて生き延びることを選択するだろう。山崎豊子の小説「大地の子」の中で、陸一心と育ての両親が、長春のチャーズをくぐり抜ける時の光景(小説の中の)が目に浮かぶ。陸一心はそこで、私的善悪と公的善悪の差、更には「善悪」という概念の限界を学ぶことになっただろう。