神奈川県藤沢市の市立小学校で、女性教諭が4年生の算数の授業で「嫌なやつ(18782)+嫌なやつ(18782)=皆殺し(37564)」などと不適切な語呂合わせを使っていたことがわかり、市の教育委員会は保護者説明会を開いて陳謝する方針です。(TBS系(JNN))
1)上記語呂合わせを授業で喋ったことを問題視して騒ぎ、教育委員会が保護者説明会を開いて陳謝するという。平和ボケの国の何という愚かな行動だ。
世界の至る所で、テロという皆殺しが存在する。その論理はまさに、「手を組んでいる嫌な奴は皆殺し」である。何故相手が嫌な奴なのか? それは皆殺しで解決するのか? こちらも相手にとって嫌な奴ではないのか? そんな思考など、この国の大衆には難しすぎるのだろうか。
社会を作って狭い空間に生きる人間にとって、運命的なキーワードがこの語呂合わせである。それを教室で言ったことの是非は、状況がわからないのでなんとも言えないが、仮に無配慮なことであっても、後の授業でそれを利用して、生徒に社会と個人、更に政治の意味に至るまで教育できる材料になり得る。教育委員会はその教師にそのように指導すべきだろう。
算数といっても数字の処理だけを教えていては、数字の意味がわからない。授業は脱線してこそ、生徒の記憶に残る知識を与える。37564=>皆殺しの語呂合わせのどこがわるいのか。皆殺しということばの存在が悪いのか? 言霊に支配され、議論と論理を知らない国民性とまで言えば、言い過ぎか(文献:井沢元彦著、言霊(なぜ日本人に、本当の自由がないのか)祥伝社)。
2)市の教育委員会は何故保護者に謝るのか? 謝るという行為は、世界の常識ではもっと深刻な意味を持つことを平和ボケの日本人大衆は知らなすぎる。何か非難されると直ぐに直接責任が無いと思いながら、否、直接責任が無いと思っているからこそ、組織の上層部が揃ってカメラの前で頭を下げる。何という奇怪な光景だろうか。
「頭を下げで自分たちの責任を認めた以上、その件について何らかの賠償などの措置をとらなければならない」――それが世界の常識である。一方、謝ったのだから、それで全て許され、事件の全てが霧消するというのが、日本の奇怪なる文化である。
従軍慰安婦にかんする河野談話を思い出す。誤ったのだから、それで許してもらえると思ったのだろう。それが、その後の日韓関係に刺さったトゲになってのこるとは夢にも思わなかっただろう。