昨日午後CBCで放映された番組で、10年前のものを再構成した二時間に亘る特別番組であった。全てを詳細に見た訳ではないが、感想を書いておきたくなった。
ーあのとき原爆投下は止められたーというのが副題であった。
米国における原爆開発の背景、日本が標的になり、且つ、実際に投下されたプロセス、原爆投下の下で生き残った人の証言とそれに基づいて再現された爆発の瞬間の町と人々の様子、開発に当たりそして投下の際にエノラゲイの同乗した科学者の広島訪問、そして、被爆者との話し合いなどで構成されていた。
その中で最も注目したのは、原爆投下の瞬間を見届ける為にエノラゲイに搭乗した科学者と被爆者との対話であった。原爆の被害を話合っているとき、「悲惨な出来事である。二度と起こってはならない」と心の底からと思われる発言をしていた米国の科学者は、「あの惨状を原爆投下した当事者としてどう思いますか(記憶があいまいですので、正確ではないと思います)」という質問には、「I don’t apologize; 私は謝罪しない」ときっぱり答えたことが印象的だった。更に、問いただす被爆者には、我々にも「Remember Pearl Harbor」という言葉があると言った。
テレビ局の取材に協力して日本まで来たのであるから、一応誠意ある人物であるだろう。しかし、日本人なら当然に「本当に申し訳なかったと思う」と謝るところであり、従って、テレビを見ていた多くの人は決してその科学者の誠意を認めないだろう。その米国科学者は、最後には握手をして、確か「take care of yourself (大事になさってください)」と言って被爆者達と別れた。
この科学者と日本人被爆者との間の溝は最後まで埋まらなかった。それは、文化の違いによって言葉が互いに通じないのだと思った。(注釈1)
日本語の”謝る”という字は、罪を認めるという意味ではない。“謝”は感謝にも謝罪にも用いられる。“謝る”は、元々単に“言及する”とか“説明する”位の意味だろう。また、日本では日常的に、「申し訳ありませんが、」「すみません、」で会話がスタートすることが多く、謝るという言葉も非常に“軽い”と思う。
次に、謝罪の”罪”であるが、西欧圏では罪と言う言葉の重みは地獄を畏れる気持ちもあって、日本人より遥かに強いと思う。日本人にとって地獄は、“地獄も一定の住処”という位のものだからである。(“地獄極楽はこの世にあり”と言う言葉もある。)
欧米では人は全て自立した人格を持つ。つまり、個人主義的である。原爆開発と投下の罪を認めることは、原爆開発に関係した人生の大半を自分で否定することになり、生きる上で大きな苦痛を背負うことになるのではないだろうか。日本の場合は、集団の中に帰れば良いが(注釈2)、欧米人は神と個人の一対一の関係が基本だから、自分の罪は自分で背負わなければならないのだろう。
「ヒロシマ」は原爆の恐ろしさに関して、新たなものを与えてくれるものではなく、従来の知識に何も付け加えるものは無かった。また、原爆投下の経緯については、この番組の理解はあまり深くないとさえ思った。ただ、この原爆を投下したエノラゲイに同乗していた科学者と被爆者の対談は、欧米と日本の文化の違いを改めて知る良い材料だと思った。(8/18, 午前、午後編集)
注釈:
1)何時も“言葉の問題”に導く私のやり方が嫌いな人は多いだろう。しかし、この批判にたいして私はそう思うとしか答えようがない。
2)先の大戦の講和条約後、東京裁判で死刑となった戦犯達は全て名誉回復され、戦死者として靖国神社に祀られることになった。