昔は秀才、今は只野係長 | BOOTS STRAP 外国語と ゆかいな哲学の館

BOOTS STRAP 外国語と ゆかいな哲学の館

ありふれた日常を考察する
<芦屋・三宮>

「十で神童、二十(はたち)過ぎれば只(ただ)の人」という諺がある。
ここにある「只の」は「取り立てるほどのこともないようす」の意。
それを踏まえてこの諺を解釈すると、
「小さい頃は、神童と呼ばれるほどに優秀であったが、
成長してからは、何でもない人になった」と解釈できる。

この内なる意味としては、
かつて優位にあったものを小バカにして楽しむオチでもあった。

子供の頃は優秀だったが、大人になってから普通の人になってしまうことは、
日本社会では良くあること。
これは、本人が努力せずにいつの間にか「ただの人」になったということもありうるが、
日本社会が、傑出した人物を歓迎しないということもありそうだ。

一方、「只(ただ)」というは言葉には別の解釈もある。
藤原良経の歌に
「人住まぬ 不破(ふわ)の関屋の板廂(いたひさし)あれにし後は ただ秋の風」
というのがある。
この意味は、「人が住まなくなった不破の関にある番所の廂は、荒れ果てて、
ただただ、秋風が吹いている」と解釈される。
これを絶賛したのが室町時代の僧・心敬。
この歌の中に、「ただ」という言葉を用いていることに対して、
「この二字のありけることよ。あな恐ろし」と語っている。
すなわち、深い「こころ」を「ただ」というわずか二字で表現していると絶賛している。
「ただ」というのは「深い意味」と判断すると、
「只の人」という表現は、意味が違ってくる。
「取り立てるほどのこともない人」という意味ではなく「スゴい人」となる。

そうなると、「十で神童〜」の解釈は、
「小さい頃は、神童と言うほどに優秀であったが、成長してから、スゴい人になった」
となる。
そう解釈すると、オチをつけ、小バカにして楽しんでいた諺の雰囲気は無くなるが、
よく読めば、違った形の小バカにしたオチ。

*無断転載を禁止します。
*严禁复制粘贴**本"Boots strap"博文禁止复制粘贴。如有发现,本人将采取法律措施。

*2カ所のブログランキングに参加しています。
↓↓下のアイコンにポチッとお願いします。押すとランキングのページに行きます。お手間ですが戻ってきて、もう一つ下のアイコン(にほんブログ村)にもポチッとして頂ければ、、。

エッセイ・随筆ランキング
↓↓ にほんブログ村は、こちら。  
にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へ
にほんブログ村

フレンドリーでリーズナブルな外国語スクール
*外国語リニア
芦屋市大原町12-1 プティビル 201

<了>