「ロートレアモンとランボー」そして「ベートーヴェンとメユール」 | BOOTS STRAP 外国語と ゆかいな哲学の館

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ありふれた日常を考察する
<芦屋・三宮>

日本語は、一人称、二人称の言葉が非常に多い。
一人称の場合、普段使うものでも、私、僕、オレなどがある。
日本語で表現する詩などは、一人称を変えることで印象がまるで違ってくる。
ランボーの「詩」は、たいてい、主語を「オレ」と訳されている。
彼の詩から滲み出ている気持ちは、まさに「オレ」であって、
決して「ボク」や「私」ではないというところだろう。
ランボーは、17歳で家出してパリに住んだ。
ちょっと不良少年っぽいが、その頃の彼の文章を読むと驚かされる。
こんなモノを17歳で書けるのか?!と思うほど。
そして、詩に表れているこの発想は、どうして生まれたのだろうか? 
時代がそうさせたのか? それとも、天性のなせるワザなのか?
などを感じさせられる。
時代というのであれば、彼の同時代の青年の一人が思い浮かんでくる。
青年詩人・ロートレアモン (Le Comte de Lautréamont)。
彼を有名にしたのは彼の詩集『マルドロールの歌』。
特にその一節「解剖台の上での、ミシンと雨傘との偶発的な出会い(のように美しい)」
は孤高の域に達した詩人を感じさせる。
彼のそれらの詩は、死後20世紀の初頭にシュルレアリストによって発掘されるが、
彼はランボーがパリに向かった1870年に24歳の若さでこの世を去っている。
私には、微妙な位置関係で、この二人の類似性を感じる。
それは時代がそうさせたのか? もっと違うものなのか?

時代の類似というもので感じるのは、ベートーヴェンとフランスの作曲家メユール。
メユールは貧しい中に生まれ、貧民街の盲目のピアニストからピアノを習い、
それを携えて、パリの出てきて二流演芸であるオペレッタの曲を作っていた。
ただ、次第に様々なところで用いられて、宮廷音楽家ともなり、
交響曲 第1番 ト短調 を書き上げる。
ちょうどその年に、ベートーヴェンが交響曲第5番『運命』を書き上げている。
この二つの曲、現在でも曲想の類似を指摘されることもある。
同時代といえど、ウィーンとパリ、この二人に接点はない。
ただ、ベートーヴェンが交響曲第9番『歓喜の歌』はメユールが書いたオペレッタから
着想を得たという話もある。
この二人、人知れない世界で相通じるものがあるのかもしれない。
同時代には、同じ趣味や同じ発想を感じるものが漂っているのだろうか?
こんなミステリーにも似た世界。

我が興味をくすぐって行く...


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<了>