を読んでいると、その話の脈絡から、危うく「幽体離脱」してしまいそうな
感覚に襲われてしまった。哲学者というのはヒマなのか、よくまあ、
こんなことを考えるものだと思えることが多い。
このメルロ=ポンティもその一人。
彼の哲学は「知覚」の哲学と呼ばれる。
「知覚」を語るには、その先駆的な立場にいるデカルトを語らねば話は始まらない。
デカルトの有名な言葉「我思うゆえに我あり」をご存知の方も多い。
まず、この言葉の意味を簡単に語ると、
「我」というものは存在しているのか?我というのは夢の存在かもしれない。
夢は、その中にいる間「現実」のように思っているが「現実」ではない。
人間存在そのものが空想かもしれない。
だけども、唯一「思っている」という「我」は間違いなく存在している。
そのあたりのところを語っている。
メルロ=ポンティは、デカルト以来の大変革をもたらそうというものらしい。
彼の考えを端的に言えば、
「心」が「身体」をコントロールしている状態が通常と説くのが一般的だが、
彼の言わんとするところは、
「私の身体が『対象になるか』『自己自身になるか』は、どちらかであるとはいえない。
つまり、両義的である」という表現。
身体で知覚した「知覚」そのものがそのまま主体になることがある。
例えば、我々が音楽を聴いたとすれば、それを捉えた身体の器官が得た感覚が
自己自身になることにもなる。
決して心の対象ではないのだ!ということ。
すなわち、「知覚こそすべて」。
彼の哲学をミニマリズムと表現することもある。
音楽の一分野にミニマリズム・ミュージックというのがある。
これには「単純反復による音楽語法」という表現がなされている。
1960年代のアメリカで誕生したものと言われるが、「単純反復による音楽語法」
の元祖的存在といえば、我が敬愛するエリック・サティだとも言われる。
エリック・サティの音楽に浸っていると、幽体離脱こそしないが、
わが心のうちに上記のメルロ=ポンティが語った
「知覚こそすべて」という感覚が湧いてくる...
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<了>