その「手」は桑名の焼き蛤。なんのこっちゃ? | BOOTS STRAP 外国語と ゆかいな哲学の館

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ありふれた日常を考察する
<芦屋・三宮>

フランス語の用法の本を読んでいると、
トランプなどカードゲームの語法が書かれていた。
日本語で「いい手」「悪い手」などと言うようにフランス語でも
「手」を表す言葉 "main" が使われ、「いい手を持っている」は
"Avoir une bonne main" と直訳そのもののよう。
「もう降りるよ」は"passer la main" となる。
「その手があったか?」など、日本の言葉にも「手」はよく使われる。
ただ、同じ「手」でも「素手」は、ちょっと不浄という感覚があるようで、
"Jeux de mains, jeux de vilains." と韻を踏んだ表現がある。
この意味は、「手の遊びは百姓の遊び」。
すなわち、素手で戦ったり素手そのもので触れたりするのは
高貴な人間のすることではないとされていたようだ。
決闘なども武器を持って闘う。そのような作法があったようだ。
『失われた時を求めて』で知られるプルーストは19世紀の後半の生まれ。
彼を挑発したジャン・ロランに対して決闘を申し込みパリ郊外のムードンの森で
決闘したのは1897年のこと。
決闘などと言うと前近代的な異物のように思えるが立派に行われていたようだ。
もちろん彼はブルジョワ階層であるから素手で殴り合うということはない。
ピストルか剣か?で彼が選んだのピストル。
媒介人を立て正式に行われ弾が外れた。
決して空砲や空に向けて撃った訳ではなかった。
優(やさ)男のように見えるが「なかなかやりますな〜」というところでもある。
同じ頃『失われた時を求めて』のシャルリュス男爵のモデルとなった
モンテスキュー伯も決闘している。
察するところ20世紀でも決闘はプライドをかけ、しばしば行われていたと見える。
モンテスキュー伯の場合は「剣」を選んだという。
ただ「剣」を選ぶとどちらかが身体に傷がつかなければ終わりがこない。
ピストルは撃てば当たる当たらないに関わらずそこで終わる。
怪我もない場合がある。だけども「剣」は必ず血を見ることになる。
実際にこの決闘は行われ、なにがしかの負傷はあったようである。
プライドと血気、こんなものが欧州の伝統的に残っているようである。

挑まれた以上、"降りたい (passer la main)" は恥というものらしい。
国際社会もこのような戦い。血気盛んも結構ある。
一癖二癖あるのが世の中。
その「手(main)」は食わないように、うまく立ち回りたいものである...


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<了>