ふりかえって | 友野雅志の『Tomoのブログ』

友野雅志の『Tomoのブログ』

日々思うこと、あれこれいろいろ、だらだら、悩むこと、
うれしいこと、悲しいこと、そして考えること。
いろいろ書くことの他、読書、ギター、詩、俳句、料理、絵、写真が趣味です。




わたしは現在68歳だが、何年も悩んだり、考えたりして、どうしてもわからないことがある。わたしの人生はこれで良かったのか、ということである。

18歳、高校を卒業して、受験前日酒を飲み過ぎて大学受験に失敗したのを良い機会にして、予備校等には行かず、時にどかたをして、鹿児島で東京の女の子と同棲して過ごした。時に水俣の運動に参加し、志布志の石油基地反対の説明会に行き、しかし、本質は女の子との同棲生活だった。公害問題に必死で取り組んでいたわけではない。

半年して、女の子の母親から、東京の実家に帰るように説得してくれと言われて、いいえ返しませんと言う強い理由もなく、別れた。何かこれは守るぞという強い考えがなかったのだとわかる。

10月から徳之島の父の家にもどり、ひとり大学受験のための勉強をし、時にパチンコに行き、暇になると海辺を散歩して過ごした。大学へ行くしか、東京へ行くお金を親が出してくれるはずはなかった。

そして大学へ行くと、相変わらずの生活を続けた。本を読み、絵を、詩を書き、酒を飲み、女の子と付き合い、卒業後に公務員になるとか、大きい会社に入るとか、全く考えもしなかった。小学館の試験は途中で席を離れ辞退するし、NHKも自分が好きな仕事なら入社すると言って嫌われるし、電通も副社長面接で、おもしろい仕事をしたいと長々とおしゃべりして、自己主張が強いとはずされた。グンゼは入社申し込み用紙の将来のグンゼに何が必要か、考えるところを書けという書類選考用紙に、グンゼがワコールを超えるには、と思いつくまま書いて、即合格。しかし、サラリーマンになる自分が想像できなかった。

食べることはなんとかできると考え、半年すこし東南アジアを旅して真冬のイギリスにたどり着いた。

その頃付き合っていた女性がイギリス人だったからだが、本質的にちゃらんぽらんだからだろう。英語学校に通い、カフェで働き、他に庭師、切手のオークションで日本で高く売れる切手を日本からの指示で落札する、お金の支払いや切手の郵送は勝手にやってくれるので楽しい仕事だった、そして日本からの援助でなんとか食いつなぎ、書店で働き始めると余裕すら出た。

東京の大学の比較文学の大学院の試験を受けた時は、紫式部を一生読むのは退屈だと感じ、途中から白紙のまま提出した。ロンドン大学のフランス文学と英文学の比較文学は楽しく続けそうなので、教授に面接を申し込んでOKをもらった。

しかし、サッチャーさんの外国人学生授業料値上げで諦めるしかなくなった。

その後、日本に帰って来たが、ロンドンであのまま書店で勤めていた方が良かったかなぁと思うことがある。

日本に帰って来たのは、日本人の女性と出会ったからだ。

日本に帰ってからは、あの人に迷惑をかけてはいけないとか、この人たちの仕事を無くしてはいけないとか、自分の力や目的を考えることなく、安易に会社を立ち上げたり、移籍したりして、なんとか食べてこれた。多くの人に迷惑をかけたかもしれないが、それほど日本は豊かになっていたのだろう。

そして、68歳、まだその延長を生きている。学生時代は睡眠を削って本を読み、絵を描き、酒を飲んだし、仕事は、全国を飛び回って死にものぐるいでした。しかし、本気で悩み、苦しんだのは女性とのことかもしれない。

そろそろ死が近づき、死のあとに何を残すことができるのだろうか、と悩んだりしたが、今は死のあとにわたしは責任を持てないのだから、悩まないようにしている。この生活を続けていると、まわりの人々が考えて、わたしの死の処理をしてくれるだろうし、家族もそれぞれに生きて死んでいくだろうと思う。

そして、こうしか生きれなかったのだから、ベストだったのだろうと考えている。