ナショナリズムを超えるために⑧なぜ民族国家か | 友野雅志の『Tomoのブログ』

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日本は単一民族国家だと言われるがそうではない。アイヌ民族は違う言語をもっていた。また、在日の人々も多い。アメリカには、いくつの民族が現地人として住んでいたか、研究の歴史とともに増えて来た。現在では百を超えていると言われる。

ひとつの民族の生活共同体が壊れるのと同時に、ひとつの民族が消える。

近代国家の成立は、多くの民族の言語・文化を消し去り、政権を握る民族の言語に統一することだった。言語は公教育で統一することが可能だが、文化・宗教は簡単にはできない。

日本で沖縄に旧正月他の習慣が残っているのも、シンガポールが、西洋歴の正月、中国、インド、イスラムの正月と四つの正月をもつのも同じ理由である。

一方で、単一民族国家のもつ歴史・同じ美学の重要性をかたるのが、安倍氏他、ヨーロッパの民族主義者である。この考えは、多くの人の共感を得る。特に、独立まもないアフリカの国々、ユーゴスラビア等元共産圏から独立した国々である。

また、同時に、そうした民族の独立を抑える国々もある。チベット・ウィグル地区をもつ、中国。イスラム民族をかかえるロシア。その土地の地下にある資源の価値、一民族の独立を認めた後に起こる可能性がある国家の分裂、それを避けるために、民族独立と言う百年前からの世界の流れと逆行する方針をもつ国もある。

他方で、民族の閉塞性をこえようと国家間での国民の移動を認めたのがEUである。

あとひとつ、植民地としての独立で、多民族国家としてナショナリズムを維持しているのがアメリカである。

まとめると、単一民族のナショナリズムのうまれるのは、次のようになる。
①多民族の大国から単一民族国家として独立する。
②多民族の小国がひとつの国家として成立する。
③多民族国家からの独立を要求する。

単一民族国家でない場合は、珍しい例としてアメリカのように植民地として独立した場合、EUのように、独立していた国家が共通の経済基盤をもつ場合。

すると、日本の場合は、②と考えてよいだろう。

そこで、国家と文化・歴史の美意識の関係である。現在、国家として独立していようがいなかろうが、ひとつの民族としての言語・文化・統一感をもっているのが単一民族である。

日本は、百五十年前までは小国の集まり、八百年前までは、完全に別れた国・・・蝦夷、東北、瀬戸内海の海軍国家、南九州、琉球・・・・がそれぞれの力をもち、ヤマト国家は滅ぼされる可能性もあった。

その日本で、ナショナリズムをどのように語るのか。安倍氏は、「美しい国」という題で、故郷への愛を語る。戦前のナショナリズムを支えたもの、日本人は同じ美意識と美の基をもつので、そのために生きよう、あるいは死んでもよいだろうというのと変わらない。

先崎彰容氏は、ナショナリズムを無条件に必要だと語る(『ナショナリズムの復権』)。萱野稔人氏は社会を暴力で(警察力で)治めるには国家が必要であると語る(『ナショナリズムは悪なのか』)


本当にそうであろうか。私たちは、安倍氏が語るような「美」をもとめているだろうか。そもそも日本の政界のトップがその美を求めて生き、私たちは彼らに美を見つけることができるだろうか。

国家の権力・何を善とし悪とするか・悪に対し力を行使する権限がなければ、本当に社会は成り立たないだろうか。私たちは見ていないが、近代国家成立前前は、近代法も警察力もなかった。それでも、人類は生きて来た。

わたしたちは、誰をも受け入れること、差別しないこと、グループで集まり仲間外れをしないこと等、あたりまえのこととして知っている。あるいは教わる。しかし、民族間、国家間ではそのルールは無視されてあたりまえになる。

本当に民族国家でないと人類は平和に生きていけないか。ナショナリズムが本当に必要か。わたしたちは、これからの時代を生きるために、これまでに見ることができなかった、民族国家でなく、ナショナリズムで維持されるのでない世界を考える時がきているのではないだろうか。

(2014.03.16)