ナショナリズムを超えるために⑦不可能論について | 友野雅志の『Tomoのブログ』

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前回、次のように書いた・・・・・・『ナショナリズムの復権』で先崎彰容氏は、ナショナリズムが危険なわけではない、しかし、国民は頼るべき歴史あるなにかを必要とすると語る。さて、ほんとうにそうだろうか。先崎氏が語っているのは、「ナショナリズム」が宗教になるということを示しているのではないだろうか。私が確認したかったのは、ナショナリズムについては善悪の判断できないと政治学者は考えており、もし判断するとしたら、その時のナショナリズムの現実的な動きがどうあらわれたかということで行うしかないと考えているだろう。

しかし、・・・・イズムといわれるものが良いことはないと私は思っている。なぜなら、私たち人類の思想は、何かを否定するために語られるからである。現実化していないある思想が、ある世界を求めるとしたら、それは夢想になる。ナショナリズムを、それをこえる地点を求めて観ている時は善であるが、同じ視線で観る時は悪になるだろう。

わたしたちは、国として民族をこえたところまで、いつ行けるだろうか。・・・・・

ナショナリズムもインターナショナリズムも、わたしたちが何かを規定する時に、その何かを概念化するために用いる時は、善でも悪でもない。

ナショナリズムが外国による支配を否定するために用いられるなら、善になる。国民の自由を剥奪するために用いられるなら悪になる。インターナショナリズムも同じである。

『ナショナリズムは悪なのか』で、萱野稔人氏でこう書いている。「・・・・・私がナショナリズムをー限定された意味においてであれー支持するのはなぜだろうか。その理由は、『国家は国民の生活を保障すべき』というナショナリズムの原理が機能しなくなればなるほど、ナショナリズムは逆にアイデンティティのシェーマを活性化させてしまうからである。

どういうことか?格差の問題についていえば、労働市場がグローバル化し、国内の格差が拡がれば拡がるほど、社会のなかでは逆に『日本人』というアイデンティティが強調され、それを拠り所にするような傾向が強まってくるということである。」

萱野氏は、「格差」を労働市場の海外への拡大による賃金低下に見て、グローバル化に労働のグローバル化を考えている。そのために、彼の「ナショナリズム」は、その問題の解決の方法のひとつになる。簡単に言うと「同じ言語を使う同じ民族を雇い」「グローバル化で、安い労働を求めて海外進出することは国内労働者の低賃金化をまねくので止すべきである」・・・・・明確に書いてはいないが、彼の主張をまとめるとそのようになる。それを、いろいろな学者の言葉を引用しつつ、主張している。彼の「企業のグローバル化・経済のグローバル化」の理解が、労働市場の一面しか見えないために、彼の「ナショナリズム」理解も一面的になる。グローバル化している企業は、ある、あるいは複数の国民国家に本社を置き、その国家の政府と共通の立場に立っていると言うこと・・・拡大し、利益を上げ、豊かになること、しかし、国民はその目的の中には入っていない。

そして、国民がもつ不満の原因として、国家は外国の労働市場・企業のマーケットの拡大をあげることで、国家は国民の不満を外へ向かせることである。それは、中国もロシアも、アメリカも日本も同じである。

その時に顔を出してくるのが「ナショナリズム」である。

ナショナリズムとは、各民族が固有の政府をもつことだと、萱野氏はゲルナーを引用しながらいう。つまり、コルシカやカタロニアが独立することが、歴史的発展であり、中国からチベットとウィグル地区が独立し、民族国家を設立することが歴史的必然ということになる。

そのことを、アントニオ・ネグリとマイケル・ハートによる『マルチチュード』(いろいろな民族によって構成された群衆)と国家を超えた組織による権力の行為(国連軍とか)が、国家と同様な暴力によって正義(あるいは、正義と信じること)を行うことをもちだして、国民国家を否定しているものではないと言う。

確かにそうである。しかし、アメリカという、多民族に国を愛することを宗教のように要求し成功している例もある。人種のるつぼといわれるアメリカだが、白人が74%で半数以上を占めている
(2006年American Community Surveyより)。しかし、「愛国心」を同一民族の共生感でなく、民族の歴史でなく、「その国にうまれた」ことから育てるということに成功しているように思う。つまり、「愛国心」の宗教化を、もっとも基本的なところでなしていると思う。

いつか、アメリカも国内での格差問題から、愛国心が「宗教」のように機能しなくなるかもしれない。国民の貧しい層から、「我々は、一部の富裕層と政治家のために生きているのではない」という反「ナショナリズム」がでてくるかもしれない。

国家はナショナリズムを高揚させようとする。排外主義で、歴史的な選民思想で、オリンピックで。しかし、同時に、国民の「ナショナリズム」への期待は、経済的格差が広がり、国内での富が一部の富裕層に集まることで、徐々に小さくなる。

しかし、ナショナリズムを超える魅力あるものは出てこない。

民族を超えて、言語を超えた共生、それは民族と言語を超えることでそれに支えられる「ナショナリズム」を超えることができる時に人類は手にすることができるかもしれない。

(2014.03.12)

5年前に書いたが手はくわえなかった。