ニューヨーク同時多発テロから15年が経ちました。
愛する街で経験した大きなショックは、今でも忘れられるものではありません。
あの日のことをこの15年の間に、何度も話したし、書いてきました。
でもまた書きます。
あの日、まさにあの日、私は一時帰国のため日本に出発する予定でした。
いつもは数日前から帰国の用意をしてスーツケースに荷物を詰めるのに、なぜだか実感がわかず、当日の朝まで準備をしていなくて、朝起きて慌てて用意をしていました。
その頃、私はちょうど鳥の雛を育てていて、まだ数時間おきに餌を与えないといけない状況でした。
小動物を飛行機に乗せるのは、(今はどうか知りませんがその頃は)簡単な手続きで済んだのですが、それでも学術名まで調べないといけないとか、いろいろ分からないこともあって、空港に電話をして係員の方にいろいろ教えてもらっていました。
でも電話が、なぜかある時からぱったりと繋がらなくなった。
そこへテレビのニュースで事件を知ったルームメートの日本の家族から電話が。
ニューヨークにいる私たちは、テレビをつけていなかったので、何を言っているのかさっぱりわかりません。
電話を受けてから、テレビをつけて、ようやく何が起こったのかを知りました。
すぐに私も日本の母に電話。
「帰れないかも知れない」ということを伝えました。
(なんと、何が起こったのかをまだ知らない母は「今、栗拾いしてて忙しいから!(ガチャ!)」と電話を切った!!その後で何が起こったのかを知ってかけ直したそうですが、もう電話はつながりませんでした。でも、とりあえず一報しておいたおかげで私が生きているということは伝わってよかった。
ちなみに母は阪神大震災の時も当時大阪で一人暮らししていた私が地震直後に「地震があった!こわい!」と電話した時も「ん〜。大丈夫やから、寝りぃ。。。(ガチャ!)」と切った!起きてからテレビで被害の大きさを見てかけ直したそうですが、やはり電話はもう不通でした。でも私が生きているということは伝わっていてよかった。)
当然、その後は空港には一切電話は繋がらなくなりました。
テレビを見て情報収集するも、一体何が起こっているのかよく分からない、不安な1日となりました。
ただ、あの日、空があまりにも青く澄んでいて綺麗で、見つめていると心がとても静かになるのが不思議でした。
こわい、不安な時のはずなのに。
数日飛行機は飛びませんでしたが、やがて復旧し、私のフライトは無料でいつにでも振替られることになりました。
1週間後に帰ることに決めました。
前置きが長くなりましたが、その1週間に経験したことを伝えたくて書いています。
多くの人が亡くなり、怪我をし、行方不明になり、それを探す人々。
本当に心が引き裂かれるような、言葉に尽くしがたい状況でした。
どう表現しても足りないので、もう想像してもらうしかありません。
でも。
そんな、地獄のような状況のはずなのに。
あの時ほど平和を、人の優しさを、強さを、愛を感じた時はありませんでした。
すべての人が、自分のことより人のことを考えていました。
ボランティアブースはどこもすぐにいっぱいで、参加しようとしても追い返されるほどでした。
献血用の血液が足りないから協力して欲しいとテレビで言ったと思ったら、数時間もしないうちに「もう沢山集まったから来ないで」と流れていました。
道を歩くと、すれ違う人がみんな、目と目を合わし、微笑み合い、「God bless you!(神の祝福がありますように)」と声を掛け合いました。
どんな小さなことでも、みんな自分にできる精一杯の力で、全体のために何かをしていました。
大きな悲しみ、苦しみ、痛み、不安の中にいる大勢の人の代わりに、そうでない人たちはみんな、ニューヨーク全体を支え合っていました。
起こってしまった地獄のような出来事とは裏腹に、みんなが天国を作ろうとしていました。
私には本当に、すれ違う人がみんな、天使か女神様のように思えました。
起こってしまったことは、あってはならない悲劇です。
でも、あの時のニューヨーカーたちのように、すべての人が普段から、愛と平和の大切さを認識し、臆することなくそれを表現していれば、もうあんな悲劇は繰り返さなくてすむはずだと思います。
そして、それは可能なんだということ、私たちにはそれだけの力があるんだということを、私はあの出来事を通して教えていただいたように思います。
世界平和は、わたしたちみんなが本気になってそれを実現しようとするなら、実はとっても簡単に、達成できることなんだと思います。
だって人種も宗教も言葉も文化も、何もかもが違う人が集まった、世界の縮図のようなニューヨークで、あんな悲劇の真っ最中にそれができたんだもの。