先日の"「私」はだれのもの?"の続きです。
前回、「私」を「私の幸せのため」ではなく「全体の幸せのため」に使わずにはいられなくなります。と書きました。
大切なポイントなのですが、これは「自分を犠牲にして人のために」ということとは全く違うことです。
「自分が人からどう思われるかが気になるから」ということとも全く違います。
「私」と「私以外の存在」という分離を見ている時はどうしてもそうなりますが。
でも、徹底的に「私の幸せ」ということを見ていくと、「私」なんていないんだということ、「私たち」しか存在していないんだということが見えてきます。
「私一人」が幸せになることはありえないんだということ、「私たち」が幸せでないと、「私」は幸せにはなれないんだということが見えてきます。
だから全体の幸せのために自分を使いたくなるって、自分の幸せに対して、すごく貪欲な姿勢なのです。
ごまかしはやめて本気で幸せになろうという、しかも成功確実な道を行きたいという、とても欲張りな姿勢です。
いつも、最高に欲張りな私でいたいと思います。
前回、「私」を「私の幸せのため」ではなく「全体の幸せのため」に使わずにはいられなくなります。と書きました。
大切なポイントなのですが、これは「自分を犠牲にして人のために」ということとは全く違うことです。
「自分が人からどう思われるかが気になるから」ということとも全く違います。
「私」と「私以外の存在」という分離を見ている時はどうしてもそうなりますが。
でも、徹底的に「私の幸せ」ということを見ていくと、「私」なんていないんだということ、「私たち」しか存在していないんだということが見えてきます。
「私一人」が幸せになることはありえないんだということ、「私たち」が幸せでないと、「私」は幸せにはなれないんだということが見えてきます。
だから全体の幸せのために自分を使いたくなるって、自分の幸せに対して、すごく貪欲な姿勢なのです。
ごまかしはやめて本気で幸せになろうという、しかも成功確実な道を行きたいという、とても欲張りな姿勢です。
いつも、最高に欲張りな私でいたいと思います。