死にたくないなら、生きればいいじゃない | かんながら

かんながら

旅の記録です

 
 

昨日の嵐はものすごかった。

 
久々のスコール到来。
 
雷もすごくて
 
ピシッ⚡️ドーン💥と落ちるたびに、
 
 
神也
神成
神鳴
 
いろんな当て字が浮かび、
雷って、やっぱり神さま思うよなって実感した。
 
素盞嗚尊(すさのおのみこと)が荒ぶる神っていわれるけど、こういう感じなのかな。

おばあちゃんの霊能者が

「神様がお怒りじゃ!!」

っていったら昔の人は震え上がって改心したにちがいない。
 
そして、おそらく雷が落ちても大丈夫そうな部屋に住めていることに感謝した。
テント生活だと絶対にこわかった。
 
 
そして、一夜明けた明治神宮は、やはり空気が違った。
 
 
森に勢いがあって、水の力も復活して、生きものたちが力を取り戻した感じ。

 
今日はひさしぶりに会う人やら、いつも会う人が話しかけてきてくれて、

 
明治神宮の森のテレビをやっていたとか、
あそこで、キンランが咲いてるよとか、
 


わたしのオーラも復活したのか。
それとも、みなの心に余裕がでたのか。
 
 
 
両方なんだよね、自分が変わると周りも変わる。
周りが変わると自分も変わる。
 
 
 

この時期は、木の花が咲く季節である。
そして秋よりも落ち葉が多くて、掃き屋さんたちは大変だといっていた。
 
この木はどんな花がさくんだろう。
たぶん、今までだったら邪魔になるから切られていたんだけど、間に合ってなくて切られてない。
 
邪魔だから、危ないから、木を切るんじゃなくて、人の方が少々遠慮したらいいのだ。
こういう景色がみられるのも、コロナのおかげ。
 
 
 
コロナでこれほどの大騒ぎになるとは正直思わなかった。
 
だって人間はいずれみんな死ぬのだから。
コロナにかからないために、ここまでするんだ!?って思うことばかりみた。
 
都民のわたしはバイキンである。
久々に子ども時代にあったいじめを思い出した。
 
あれは精神的に未熟な子どもだったからだと思っていたが、大人になってもやるんだ、と驚いた。


 


わたしは若いころは病院で薬剤師として働いていた。
自分がインフルエンザでも休む自由は基本的にはなかった。点滴を打ち、薬を飲んで仕事をするものであった。
研修医もそうだった。

 
世の中はまだバブルの余韻があって、会社員になった友人は、ボーナスをもらい有給休暇に海外旅行に行ってブランド物を買っていた。

一方わたしは、国家試験に合格しても、給料が安くて、病気になっても休めない。会社員はいいなって思った。
 

だから、古い知識かもしれないが、病気のこともウィルスのことも体験として普通の人よりはずっとよく知っている。
インフルエンザをうつさない工夫をして、病気の人たちが訪れる病院で働いていたのだから。


今だって、知識をフル動員して、自分が感染していることを前提として、できるかぎりの工夫はしている。
 
 
それでも黙って歩いているときすら、マスクをしていないと睨まれたりとか、もう疲れてきた。

子どもが外で遊んでいたら怒るとか、居酒屋に飲みに行くのはけしからんとか、
 
 
コロナにかかりたくないなら、あなたは家にいたらいいじゃない!!


って思う。
 
そして、
 
そんなに死にたくないなら、後悔しないように、生きたらいいじゃない、


って思う。
 
 
人のことはいいではないか。
まず自分が、後悔しないように生きればよい。
 
 
 
人はひとたび恐怖を感じると、異常行動をとりはじめる。
思考が停止して、洗脳モードに入るようである。
 

トイレットペーパーがなくなり、スーパーの棚が空っぽになる。
県外の車が止まっていたら傷をつけるとか、本当なんだろうか?
 
おかしいでしょう??

 
本当にそこまでして生きたいの?
そんな風に生きてしあわせなの?
 
 

他の人の行動を監視して、非難して。
自分が我慢しているから、人にも我慢しろって。
だったら、自分もやればいいじゃない。
 
しっかりできる限りの予防をして。

だってみんな、こんな苦しい病気、かかりたくないに決まっているのだから、積極的に死にたい人以外は自分から予防するはずである。
 

今すべきことは、規制でも監視でもなく、正しいコロナの知識の教育である。
 
 
STAY HOMEできるわたしたちは、とても恵まれているのだ。
この世には、生きていくために、それができない人もいる。
 
家がない人もいる。
いきなり仕事がなくなって、困っている人もいる。
 
休校やオンライン授業になっても授業料は変わらず、アルバイトで生活費をまかなっていた学生さんはどうなるんだろう。
しかも生活に困って実家に帰ろうとしても「帰省するな」と言われて本当に気の毒である。
 
 


わたしは休業を余儀なくされているお店のみなさんには申し訳ないが、外国人観光客が減って、食べ歩きにきた人たちのゴミのポイ捨てがなくなり、空がきれいで、平常に戻ったわたしの街が好きで、このままずっと非常事態宣言でよいくらいである。

インバウンドに舵をきってからは、街の様子がおかしかった。
 
神宮も、朝から観光客が訪れ、土が乾いて、森に力がなくなり、ご神域の空気が変わって、植生も変わった。
 
せっかく、こんなに多大な犠牲をはらって、経済を止めることができたのだから、
ちゃんと頭冷やした方がいいんじゃない?ってすごく思う。
 
 
本当に、こんな風に生きたいんだろうかと。
 
 
だから、政府が非常事態宣言を延長してくれたことは、個人的には歓迎している。
 
今解除に踏み切って皆が日常に戻ってしまったら、こんなに多大な犠牲を払いながら、一番大切なことに気づかぬまま、元の生活に皆が戻ってしまうだろうから。
 

さて、復活した森に3年か4年ぶりくらいに現れたギンリョウソウ。銀竜草とかく。
銀の龍。
確かにぼんやりと光ってる。
 
 
富士山麓では木花咲耶姫の化身っていうんだって、となにわの審神者(さにわ)に教えてあげたが、
「あれは、ユウレイダケやろ。」と否定する。
 
「富士は晴れたり日本晴れっていうんやから、日陰のユウレイダケは木花咲耶姫と違う」
 
 
 
「富士は晴れたり日本晴れ」(ひふみ神示)
 
でもその富士のほとんどは深い森である。
裾野がぐるっと樹海だということは、面積でみたら暗い森の部分の方が圧倒的に大きいのである。
 
あの神々しい美しさは、樹海の生み出す神気の力なのであろう。
 
 
 
全国に熊野神社はたくさんあるが、本宮は、和歌山県にある。
和歌山は、古くは「きのくに」といった。
 
そして、林業が盛んであった。
木は気の元である。
 
熊野は、自然との調和を大事にしてきた。
採りすぎないよう、こわさないよう。
 
熊野がパワースポットだというのは、神社の力ではなく、森の力である。
そしてその森を守り育んできた人たちの知恵によるものである。
人の知恵や、心の中に神は宿るのだ。
 
神社は、その「しるし」にすぎないのである。
 
 
熊野といえば、牛頭天王(ごずてんのう)。
今は素盞嗚尊に変えられていたりする(わたしの産土神もそうである)。
 
牛の頭を神様に捧げたことによるらしい。
沖縄だと豚のあたまを。
 
生きものの命をいただくということを嫌でも意識する。
そうするときっと貪らないようになる。
自然を侵さない、って大事なことだ。
 
 
道端にもたくさんの花が咲いている。
 
 

非常事態宣言のおかげでゆっくりした時間がみんなに流れている。
足元にあるたくさんのいのちに、目が向くといいな。
 
そして、自分の街に暮らす人たち、かつてそこに生きた人たち(神様)の存在に気づくといいな。