すると、左手に恵解山古墳(いげのやまこふん)の後円部が見えてきます。後円部には、後の時代に設けられた墓地が載っているのが見えます。
そこからすぐに、古墳のまわり〈整備された公園〉に入ってもいいのですが、ここは我慢して、道なりにJR東海道本線の線路の手前まで行って、ぐるっと左に回ります。
※線路の向こうには、最近移転してきた立命館中学・高等学校の真新しい校舎が見えます。
今回の「長岡京散歩」の目的地であります、史跡・恵解山古墳です。
復元整備された墳丘の西側からアクセスします。

恵解山古墳は、古墳時代中期(5世紀前半)に築造された全長128mの乙訓地方最大の前方後円墳です。桂川右岸の西側から続く標高約16mの低い台地の縁に造られています。周囲には、幅約30mの周濠があり、周濠を含めた古墳の全長は約180mに達します。
古墳は3段に築かれ、斜面には砂岩やチャートなどの川原石が葺かれ、各段と頂部平坦面には埴輪が並べられていました。後円部には、死者を埋葬した竪穴式石室があったとみられます。

恵解山古墳は、その規模や構造から、5世紀前半頃に桂川右岸の現在の"乙訓地域"一帯を治めた指導者の墓だと考えられています。
ここからは私見が中心になりますが──。
ずい分昔の話になって恐縮ですが──。
このブログで、これより北方の向日市にあります五塚原古墳や元稲荷古墳を見学した記事を書かせていただいたと思います。これらは、3世紀後半頃に築造されたと考えられている"古~い"古墳で、「向日丘陵古墳群」を構成するものでした。
淀川・桂川流域から丹波・丹後地方に通じるルート上に位置する「向日丘陵古墳群」に埋葬された指導者たちは、ヤマトやカワチの王権に協力した勢力の一つだと考えられるのです。
その南の延長線上にある恵解山古墳は、それらの勢力と何からの関係があると思います。
それが、後を継いだのか、取って代わったのか、支配したのか(されたのか)は、分かりませんが・・・。
それから──、ここから──。
桂川・淀川の右岸を下流に進めば、つまり西国街道を西に向かえば、行き着く「高槻市の古墳」がありますよね!
これも、前にふれていました今城塚古墳です。"真の(!?)継体天皇陵"と言われる、さらに大きな(190mの)前方後円墳でした。
たぶん、恵解山古墳築造からおよそ1世紀後くらいに今城塚古墳が造られていますから、3世代くらい後の有力な指導者が、この下流にいたことになりますよね。
継体天皇を推し立てた勢力は、北陸(越)からびわ湖、淀川水系、難波を経て瀬戸内海、そしてさらに外国(朝鮮半島)にまでネットワークを持つ、水運に優れた集団であったことは、今城塚古墳に置かれた埴輪に刻まれた[舟のマーク]から分かる──そんな話を前に"たぶん"したような……。
恵解山古墳から、向日丘陵古墳群と今城塚古墳を繋ぐ、"何らかの関係"が想像できるのです。
では、もうちょっと詳しく墳丘を見ておきます。
ほぼ正方形の西造り出しは、埴輪が並べられている形で復元整備されていました。

周濠に張り出したこの場所は、何らかのマツリが行われたと考えられています。
写真がなくてすみませんが、東造り出しは汀線が曲線状の"州浜"になっていたようで、その対比が、何だか面白いです。
前方部中央の埋納施設には、鉄刀や鉄剣、鉄鏃、鉄斧などの鉄製武器約700点が納められていたそうです。

その埋納施設の様子が、模式的に復元されていました。
※この出土の鉄製品は、京都府指定有形文化財に指定されています。
この鉄製品から、またまた想像されることは──。
鉄と言えば、あの【河内の巨大な前方後円墳】との関係ですよね!
越や丹後~近江(びわ湖)~淀川水系~そして河内の巨大な前方後円墳・・・。大きなネットワークがあったのかも知れませんね。

ぐるっと古墳の周りを歩いて、南側に移動しました。
前方後円墳はどちらが正面かは知りませんが、南側の前方部にエントランス、石段が付説されています。
※正確には、南南東かな・・・(?)

墳丘に登って、南(南南東)の景色を見渡して見ました。
★今は、名神高速道路や大山崎JCTやそれに並ぶ国道、そのまわりに建ち並ぶ会社の建物(工場や倉庫など)で、川原は見えないんですが──。
右手(西方)には、天王山が見えます。あの山崎の戦いの「天下分け目の天王山」です。その先に高槻市(今城塚古墳)があるハズです。
左手(東方)には、桂川右岸に広がる平野があり、南に緩やかに下りながら幅を狭めています。その先は、桂川・宇治川・木津川の3つの川が合わさって合流して淀川となる「三川合流点」です。その向こうに、男山が見えます。
まさに「古代水上交通の最重要点」を押さえていたことが分かります。
「交通の要衝を押さえている自らの権力の強さを、往来する人々に見せつける」──恵解山古墳は、そんな装置だったのかも知れません。
エントランスには、乙訓地域の古墳群の模型が置かれていました。

これを"オカズ"にいろんなことを想像してしまう私です。
さらに、恵解山古墳の模型も。

乙訓地域の古墳の数々は──。
この地域か交通の要衝として、中性も近世も、そして現在も「マチとして発展」したがために、墳丘が壊されてしまって、すでに見ることができないものも多いです。
でも、ここ(恵解山古墳)は、"残ってくれて"良かった!
そんな話題に関連して──。
織田信長が明智光秀に討たれた本能寺の変のすぐ後、羽柴秀吉と光秀が激突した山崎の戦いは、あまりにも有名ですが、恵解山古墳も、その戦いの舞台になった可能性があります。ひょっとしたら、明智側の陣地が置かれたかも……。
発掘調査で、土器片とともに火縄銃の"鉛弾"が出土しているのです。後円部にある墓地が棚田状になっていることや、前方部に堀り込みがあることも、陣地を造った際の造作である可能性も指摘されています。
恵解山古墳の西側の道(恵解山通り)を南に進みます。すると、ちょっと広いサントリー通りに出ます。
※サントリービールの京都工場があるので、その名が付けられているみたいですね。
少し東に行くと、最最後の目的地、中山修一記念館があります。
長岡京の歴史解明に生涯を捧げ、多大な業績を残されました、故・中山修一先生(1915-1997)のご生家(建物と土地)を、ご遺族が長岡京市に寄付されたました。そして、先生の足跡と発掘調査研究の成果が一目で見られる施設として整備されし、平成14年(2002)にオープンした資料館です。
延暦3年(784)に都が置かれ、長岡京として一旦は「わが国の首都」となりましたが……。洪水や早良親王の怨霊に悩まされ、桓武天皇は延暦13年(794)に都を平安京に遷してしまいました。
わずか10年の都である長岡京は、その後歴史の中に"完全に"埋もれてしまいました。
それはそれは、平城京よりも・・・。

大極殿も朝堂院も、天皇の住まいも貴族の邸宅も、碁盤の目に整備された道路もあったはず──。
「幻の都」長岡京
中山修一先生は、所有されていた田んぼの長さが長岡京の条坊道路の地割の名残りであることに気づき、その存在を確信されました。

前回に見ました、この「長岡京発見之地」の碑は、その「条坊地割り」発見の場所を示すものです。
中山先生は、長岡京の解明に向けて、教員をしながら京都大学で学ばれ、現地を歩かれ、地名や文献と向き合われて──。
「長岡京条坊復元図」を完成されました。そして、昭和29年(1954)終わり頃から発掘調査に取り組まれ、翌年、長岡宮の朝堂院中門を発見されました。
その後も研究を続けられ、私財を投げう調査組織を立ち上げて、自ら先頭に立って、長岡京の存在を世に発信し続けられました。
発掘調査が行政の手に移ってからも、現場に出られ、後進の指導と研究、啓発活動を続けられました。
その研究の様子と成果が分かる資料館です。

この生家(中山修一記念館)の位置は、長岡京では「右京九条一坊」に当たるそうです。
寄り道をしていなければ、今回の「長岡京散歩」では──。
大極殿跡からまっすぐ南へ、京の縦(南北線)のおよそ5㎞余りを歩んだことになります。
それは、阪急京都線では西向日駅から西山天王山駅間の《2駅分》に当たります。
サントリー通りをまっすぐ西に行けば、西山天王山駅に着きます。駅前広場に面して、観光案内所〈長岡京@navi.〉があります。
そこで、恵解山古墳の出土遺物や発掘調査時の写真を見ることができます。もし、電車で「西国街道散歩」をされたならば、ちょっと寄り道されたら……。
長くなりましたが、これで今回の「長岡京散歩」の記事を終わります。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
では、また・・・。