15~16世紀のものなので、長岡京や長岡宮の時代からはずい分下ります。と言うか、全く関わりがありません。
時代は、応仁・文明の乱の頃に遡ります。
この近辺も、その戦乱の舞台となりました。西岡の合戦です。
この辺り(小畑川と犬川が合流する辺り)に、勝龍寺があり、西軍の畠山義就が陣城としてしばしば使うようになりました。いわゆる「中世の砦」です。
ただ、この辺りは、京都と西国を結ぶ「重要地点」でした。戦国時代の末期になると、次第に恒常的な城となり、城下も少しずつ形成されていきました。
それが、勝龍寺城です。
さて、ここで──。
前回の続きです。
JR長岡京駅の南にいるわけですが、ここに神足(こうたり)神社があります。

ご祭神は、舎人親王(天武天皇皇子)とも、天神立命(あめのかみたちのみこと)とも。
『延喜式』乙訓十九座の一つで「神足神社「神足神社(こうたにのじんじゃ)」とあります。斉衡元年(854)に国の官社にあげられたほど、歴史のある神社です(かも)。
次のような「桓武天皇の夢」と言う伝説が残っています。
「田村(この神足村の旧名)の池に、天から神が降り立ち、宮中を南から襲おうとした悪霊を防いでおられました」──そんな夢をみた後、桓武天皇は目覚められ、田村に神を祭る社を建てさせ、太刀と絹を秘蔵させました。
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ここ(長岡京の跡)は、遷都した先の平安京にとっては「裏鬼門」にあたります。そして、疫病の流行も西の火山の噴火の知らせもこの方角から都に入ります。怨霊を怖れる天皇ならば尚更、神さまをお祀りしないわけにはいきませんね。
或いは中世、この辺りの国人、神足氏の治める地の鎮守の杜だったのかも知れないですね。
この辺り地名を「神足(こうたり)」と言います。
ジジィの話でなんですが、昔は「駅名」は、JR長岡京駅ではなかったですね!
私の感覚では、神足(こうたり)駅の方がピンときますから……。
神足神社の西側に、土塁と堀の跡が残されています。
勝龍寺城土塁・空堀跡です。

永禄11年(1568)、足利義昭を奉じて入京した織田信長に従った細川藤孝(のちの幽斎)は、その後、京都の防御地点である勝龍寺城に入ることになりました。
元亀2年(1571)、細川藤孝は、信長から勝龍寺城の普請を命じられました。そして、桂川より西を領地として与えられた藤孝は、この地の支配に乗り出したのです。
ここに現存する土塁と空堀は、城下を囲うように設けられた外郭線の一部で、その時の改修によるものだと考えられています。
勝龍寺城本丸の北東に位置するこの土塁・空堀は、東西に50m、堀の底からの高さ約6疫病の流行が残っています。土塁の西端は南北方向の土塁と連結し、複雑な構造になっています。空堀は土塁に沿って設けられ、南北土塁から東に約20mのところには土橋を設けて横矢係りの虎口をつくり、敵が容易に侵入できない仕組みになっています。

南北土塁の上から空堀を見下ろしました。右手が城内(左手が城外)、写真の左上に見える柵で囲われた橋が、その"虎口"をです。ここを通って侵入しようとする敵を土塁の上から狙い撃ちするわけですね。
土塁・空堀跡から南に歩いてすぐのところに、勝竜寺公園があります。

元亀4年(1573)、細川藤孝は、長岡姓を名乗り領地の支配にかかったことは先ほど言いました通りです。
天正2年(1574)、藤孝はこの勝龍寺城で、三条西実枝から古今伝授の切紙を受け取っています。また天正6年(1578)、吉田兼見が訪れ、囲碁や乱舞を楽しんだと言う記録もあります。城は、戦の場でもありましたが、文化交流の場ともなっていたのです。つまり、「中世の砦」から「戦国大名の居館」へとかなりの普請〈変化〉が進んでいたことしょうね。
そして、天正6年(1578)、藤孝の嫡男・忠興と明智光秀の娘・玉の婚礼が行われました。両家の結びつきを強くしようとする信長の指示によるモノと言われています。
二人は、勝龍寺城で新婚時代を過ごした後、天正8年(1580)に丹後の宮津に移りますが、その2年後に、事件が起こりました。光秀が本能寺で信長を討ちました。直後の山崎の合戦で、光秀は、娘の玉が輿入れした勝龍寺城の付近に陣を構えたのは、運命のいたずらでしょうか。
江戸時代のはじめ、永井直清が入城しましたが、十数年で……。
その後は、残念ながら、廃城となってしまいました。

昭和63年(1988)、本丸と沼田丸の一部で発掘調査が行われました。調査前は、土塁部分に竹が生い茂り、堀には泥が埋まっていました。
調査の結果、堀や土塁などの遺構がよく残っていることが分かりました。瓦や土器などの遺物もたくさん出土しました。それにより、細川藤孝が普請した勝龍寺城の姿が蘇りました。
平成4年(1992)、勝竜寺城公園としてオープンしました。
公園内で目立つのは、玉(細川ガラシャ)と細川忠興の夫妻の像ですね!

細川ガラシャさん。
天正6年(1578)に勝龍寺城の細川忠興のもとに嫁ぎました。
天正10年(1582)に父の明智光秀が「本能寺の変」を起こしたために、2年ほど丹後の味土野に幽閉されました。後に、心の平安をキリスト教に求めて洗礼を受け、ガラシャと呼ばれるようになりました。
慶長6年(1600)の関ヶ原戦いが起こった際、悲劇的な最期を遂げたのはあまりにも有名ですね。
まさに「悲劇のヒロイン」、数々の歴史ドラマでは、たいてい登場すると言ってもいいくらいの女性ですね。

細川忠興さん。
ガラシャさんとは"同い歳"です。
細川藤孝の長男です。父の藤孝とともに織田信長に仕えました。本能寺の変の際、妻が明智氏であったことから光秀に招かれましたが協力せず、羽柴秀吉に従いました。
その後、徳川家康に心を寄せ、関ヶ原の戦いの功により、豊前小倉に移封されました。
和歌や絵画に通じ、茶の湯では「千利休門下七哲」の一人に数えられました。
本丸跡に整備されたお庭は、四季折々の姿を見せる、とても美しい公園です。隣接する沼田丸跡もあわせて、多くの人々に愛されています。

私は、ここでお昼(お弁当)をいただきました。
季節が変われば、美しい花を見ることができそうです。また、来てみたいです。
余談ながら──。
11月の第2日曜日、長岡京市をあげての市民まつり長岡京ガラシャ祭が開催されます。「愛と感動の物語」がテーマだそうです。ここ勝竜寺城公園も、会場となり賑わうそうです。
それから──。
公園内に2ヶ所、ガラシャおもかげの水と呼ばれる水道が設けられています。
「玉さんがその美しい姿(お顔)を映した井戸」の意味でしょうか。

長岡京市内には、地下水100%の水道水供給施設が3ヶ所あるそうで、そのうちの一つです。
長岡京市の地下水が良質なことは、よく知られてますよね。だって、ここのすぐ近くに"某"サントリーのビール工場がありますからね。
わざわざ水を汲みに来られている近所の方も居られました。私も、一口(いやもうちょっと)いただきました。
この建物の1階は休憩スペース、2階は簡単な資料展示コーナーになっています。

勝龍寺城では、織田信長が導入し、のちの城づくりの標準となった石垣、礎石、瓦の3要素が確認されています。細川藤孝が信長の城づくりの手法を取り入れた、藤孝と信長の間の強い結び付きを示す証拠ですよね。
北東隅に土塁上造られた隅櫓が復元されています。それを外から眺めて見ました。

私は「城マニア」でないので、さほど興味は無いのですが──。
中世から戦国時代の城づくりに興味のある方も来られたら……。
神足駅、いやJR長岡京駅から歩いてこれますよ!
次の目的地は、このすぐ近くです。
それについては、明後日くらいになると思います。もっと遅れたら、ごめんなさい。