初走り & 初詣 山の辺の道 ~箸墓古墳・三輪山~ その1 | あべしんのブログ

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京都・奈良・滋賀。寺社、古墳、花……、史跡をぶらぶら散策するおじさんの日記です。
京都市内は、ランニングしながら、ぶらぶらしていることもあります。

昨日(1月3日)、初RUNに奈良県桜井市は山の辺の道へ、そして初詣に大和国一の宮・大神神社(おおみわじんじゃ)に行って参りました。


大神神社は、大物主神(おおものぬしのかみ)をお祀りします。わが国最古の神社とも言われます。拝殿奥には、三ツ鳥居(重要文化財)があり、この鳥居を通してご神体である三輪山が拝まれています。
また、国造りの神さまとして、あるいは霊的な"モノ"、"一切"を支配する神さまとして、治病、造酒、製薬、縁結びなどの生活のあらゆることのご利益で知られています。


そうなんです。
大神神社は、三輪山をご神体とするために本殿がないのです。拝殿を通して三輪山を拝むと言う古来の信仰の姿を留めているのです。

私は《初詣では》初めて大神神社にお参りさせていただきました。
《正月期間中は》、摂末社への巡拝経路が一方通行になっていたり、三ツ鳥居への拝観ができないなど通行不可の所があったりで、ちょっと勝手が違いました。それは、仕方ありません。さすがにスゴい人出でしたから……。

大神神社境内では、当然のことですが、走ることはできません。お参りに2時間近くかかってしまいました――そのことはこれからレポートさせていただきます――。

ですので、初RUNと言いましても時間はあまりありません。山の辺の道のほんの一部です。それに、山の辺の道の《ベストシーズン》は、"今ではない"と思っています。
詳しい山の辺の道のレポートは、また改めて別の機会にいたします。

とりあえず――。
ご神体の三輪山のお話から――。
下の写真は、"ある場所"から眺めました三輪山のお姿です。
大和盆地の東南に位置します三輪山は、古代から「三諸の神南備(かんなび)」と崇められてきました。「神南備」とは、神霊がご鎮座される"聖なる山"です。

48峰と言われます峰々からなり、笠を伏せたような円錐形の山容が美しいです。春日山系では珍しく、斑糲岩(はんれいがん)で形成されています。山中には、巨大な岩が露出しています。これらの岩石群は、山頂付近の奥津磐座(おきついわくら)、中腹の中津磐座、山麓の辺津磐座と言うように呼ばれ、それぞれ大物主神大巳貴神少彦名神が鎮まるとされています。


ここで、ちょっと横道にそれますが――。
大神神社に伝わります「緒環伝説(おだまきでんせつ)」です。

その昔、美輪山(今の三輪山)の麓に、活玉依姫(いくたまよりひめ)と言う美しい姫がいたそうです。
ある日、姫は懐妊しました。
「お前は妊娠しているが、夫がいないのにどうしてなのか。」
と両親は驚きました。
姫は、
「名も何も知りませんが、姿のたいへん麗しい男の人が毎晩やって来て、夜明けになりますと、どこかへ帰って行きます。」
と答えたそうです。
そこで両親は、
「今夜その男が来たら、寝床のあたりに赤い土をまいておき、緒環の糸の端を針に通し、男の着物の裾に刺しておきなさい。」
と知恵を授けました。
その夜、姫は教えられた通り、裾に針を刺しておきました。
翌朝、起きてみると、赤土には足跡はなく、糸は戸の鍵穴からぬけ出て、大物主神の住む美輪山の奥まで引かれていたと言うことです。
ここで姫は、男が大物主神であることを知りました。
その時、姫の手元には、糸が3まわりだけ残っていたことから、この地を3つの輪で、三輪と呼ぶことになったと言います。
こうして生まれた子どもは、大田田根子(おおたたねこ)と呼ばれ、後に三輪の大物主神を祀る初代の神主となりました。
※『古事記・大和の伝説(増補版)』より

このお話を思い出していたら――。
『新約聖書』の中のエピソードの一つ《聖告(せいこく)》の場面を描いた、レオナルド・ダ・ヴィンチ作『受胎告知』のことが、ふと頭を過(よぎ)りました。
※先月、『美の巨人たち』(テレビ大阪)で見たところですから……。
やがて聖母になります処女マリアのもとにに、大天使ガブリエルが降り、マリアが聖霊によって身ごもったことを告げる場面です。レオナルド・ダ・ヴィンチが、無名だった20歳の頃のデビュー作です。凄い絵画らしいので、見てみたいと思うのですが、フィレンツェ(Firenze)のウフィッツィ(Uffizi)美術館にあるそうで……。行くのは無理やし、、、日本に来ないかなあ。

乙女が神の子を宿すお話は、あっちにもこっちにもあるのですね。と言うよりも、あっちの方がはるかに先ですし。

『古事記』を編纂した8世紀の人、あるいはその元の話を集めた7世紀の人は、ひょっとしたら、『新約聖書』を読んでいたと考えるのは、私だけでしょうか?
歴史は、"imagination"です。時には、"imagination"を通り越して、"fantasy"になっていることも多々ありますが……。

★横道の"さらに横道"になってしまいました。スミマセン。

活玉依姫が、残りの糸を土に埋めた場所として、箸墓古墳の近くに、「おだまき塚」〈苧環(緒環)塚〉があります。
※苧環(緒環)とは、糸巻きに麻糸を巻きつけたものです。"苧"は麻のことだそうです

そして、先ほどの三輪山の写真は、このおだまき塚の側から撮ったものです。
と言うことは、ここから三輪山まで糸が引かれていたのですね。

箸墓古墳は、大神神社から北西におよそ2㎞、桜井市箸中にある前方後円墳です。。 宮内庁により、「大市墓」として、孝霊天皇皇女の倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)命の墓に治定されてます。それから、周濠の一部は「箸中大池」として"ため池百選"に選ばれているとか……。
※『日本書紀』では、倭迹迹日百襲姫命です。『古事記』では、夜麻登登母母曽毘売と表記されます。崇神天皇の叔母さまに当たります。

下の写真は、箸中大池から見た箸墓古墳(右)、そして中央奥が三輪山の山容です。


箸墓古墳は、古いタイプの前方後円墳によくみられるように、前方部が途中から"バチ型"に大きく開く墳形をしています。
全長約280m、後円部は径約150m、高さ約30m、前方部は前面幅約130mの大きさです。大きいですね。
3世紀中頃から後半頃の築造と考えられています。
『日本書紀』には、"昼は人が造り、夜は神が造った"との不思議な記事があります。

この初期の巨大前方後円墳は、「邪馬台国の女王卑弥呼」の墓ではないかと言われています。
◆先日も、どこかの前方後円墳卑弥呼の墓かも――と書かせていただいたところです。でも、こっち〈箸墓古墳〉の方が、はるかに有名で"メジャー"です。

と言うことは、倭迹迹日百襲姫は、卑弥呼で、活玉依姫と言うこと?
"imagination"または"fantasy"はつきないのですが、ここは横道にそれるのを、グッとこらえて!

↓別の角度から――。

箸墓古墳三輪山です。

あっ、忘れてました。
箸中大池畔の歌碑です。


大坂に  継ぎ登れる  石群(いしむら)を
   手(た)ごしに  越さば  越しかてむかも
                       (『日本書紀』崇神天皇歌)

(大和盆地の西の)大坂山に人々が並んで登り、たくさんの石を手渡していけば、渡せるだろうなあ。
箸墓古墳は、"昼は人が造った"場面を歌ったものですね。大坂山とは、奈良県香芝市の二上山のことだと思われます。

揮毫は、樋口隆康氏。考古学者で、京都大学名誉教授です。残念ですが、昨年お亡くなりになられました。


気が付いたら、また要らんことを書いてしまい、長くなりました。
大神神社のことが、まったく書けていませんね!
今月中に何とかします。
今日は、この辺で終わります。