男山山上のほぼ真西に、桂川・宇治川・木津川の3川合流地点があります。そこからさらに西、つまりは淀川を挟んで石清水八幡宮ら見て真西にあります、大阪府三島郡島本町までとんでみました。
※男山山上から"本当に飛んだら"早そうですが、羽がないので"飛んでません!"
JR東海道本線・島本駅から300mほど西に行った所に、御所池(ごしょがいけ)と言うため池があります。
御所池の向こうの木々が生えている"丘(!?)"は、名神高速道路です。西宮、茨木方面から京都に帰る時、ちょうど「梶原トンネル」を出た辺りです。上り・下りとも、車線が左右に別れている辺りです。
「御所」と言うネーミングからして、「ごしょ」(天皇・上皇のお住まい)と関係ありそうです。その話は、あとでします。
御所池のほとり、名神高速道路の下に、石碑(いしぶみ)が建っています。
恋歌に華やかな才気を発揮した小侍従(こじじゅう)と言う名の歌人がいました。彼女が、寿永年間(1182-85)に自ら撰んだ家集『小侍従集』に、「おもひをしのぶ」と言う詞書とともに収められた一首があります。
石清水 清き流れの 末々に
われのみにごる 名をすすがばや
石清水八幡宮の清冽な流れに繋がる子孫として、この私だけが家名に相応しくない汚名を立ててしまいました。何としても、その汚名を濯がなくてはならない。
――突然、出家した際に、詠んだ歌だそうです。
小侍従の父は、石清水八幡宮第25代別当で権大納言の紀光清(きのこうせい)でした。そして、母は、花園左大臣家の女房・小大進(こだいしん)、和泉式部と並ぶ名高い歌人でした。また、姉は、鳥羽天皇の後宮に入った美濃局です。
小侍従は、太政大臣・藤原伊通の子・伊実に嫁ぎましたが、夫は永歴元年(1160)に亡くなりました。
その頃から、二条天皇に仕え、崩御後、太皇太后・多子(たし)に、承安3年(1173)頃まで7~8年間仕えました。この間、太皇太后宮小侍従として、しばしば「歌合わせ」に出て、当時の一流歌人、藤原俊成・定家・隆信・隆房・頼輔、源師光・頼政、久我雅通、平経盛、西行法師らと交際し、贈答歌を交わしたり、奔放な恋の歌の応酬をしたりしました。
恋多き彼女には、「待宵(まつよいの)小侍従」と言う異名がありました。
『平家物語』の世界です。
ある日、仕えていました太皇太后・多子から、「恋人を待つ夕べ(待宵)と、恋人が帰っていく朝とでは、どちらが情趣が深いと思いますか」と問われました。
小侍従は、当意即妙に、
待つ宵の ふけ行く鐘の こゑきけば
あかぬ別れの 鳥はものかは
と「待宵」を推す歌を詠んで、多子に奉りました。この出来事の後、「待宵の小侍従」と呼ばれるようになったと言うことです。
多くの歌人と交際し、特に原三位頼政との恋愛はよく知られています。
※源頼政――このブログでは「物語の舞台・宇治を散策① ~源頼政最期の場所~」の回で、平等院を訪れました時に、詳しく書かせていただきました。
源頼政の"彼女"……言い方が悪いです!……それは"大人の恋"です。
そんな小侍従が、出家したのです。59歳のことでした。どのような事情があったかは、分かりません。
建仁2年(1202)に、82歳で亡くなるまで、強い意志をもって信仰に生きたことは、残された歌から分かるそうです。
尼となった小侍従は、石清水八幡宮が鎮座します男山の中谷の款冬坊(かんとうぼう)
(椿坊)に住んだと言われています。また一説には、男山と淀川を隔てて相対します水無瀬山麓の桜井に真如院を開基し、残りの生涯を過ごしたとも言われます。
※真如院は、応仁・文明の乱で廃絶しています。
話が長くなりましたが、石碑の話題に戻ります。
慶安2年(1649)、永井日向守直清(なおきよ)は、山城国勝龍寺城主から高槻城主になりました。そして、翌年(慶安3年)、この顕彰碑を建てました。銘文は、林羅山が撰したものだそうです。
※「銘文」は漢字ばかりなので、ここに載せるのは止めておきます。おおよそ、ここまで書かせていただいたような内容です。
隣りに建てられています五輪塔の"水輪"(円形部分)は、小侍従の墓と伝わります。
待宵小侍従の顕彰碑と墓は、元は、ここからもう少し北の方にあったそうです。名神高速道路の拡張工事に伴い、平成7年(1995)に現在地に移されました。その地は「苔山」と呼ばれていたそうで、地元では、この碑と墓は「こけじんさん」と呼ばれていたそうです。
島本町は、京阪神間の交通の要所にあたります。名神高速道路沿いには、大きな会社の建物のビルディングが並んでいます。また、ここから東のわずか数百mの間に、JR島本駅と阪急京都線・水無瀬駅があり、マンションが建ち並びます。
待宵小侍従の顕彰碑あたりは、高台にあるのですが、見通しが悪くなる所もあります。
でも、名神高速道路に沿って、北の方にちょっと歩くと――。
ご覧のように、男山を真東に望むことができます。
小侍従の《最晩年の地》が、ここ水無瀬であったとしたら――。
小侍従は、淀川を隔てて、石清水八幡宮が鎮まります男山を、朝な夕なに眺めながら、歌を選び、生涯を振り返る日々を過ごしたことでしょう。
最後に「御所」のことを書いておきましょう。
小侍従の晩年の正治元年(1999)頃、この水無瀬の地に、後鳥羽上皇の「水無瀬殿」が建てられました。
――その話は、機会があれば、また後日。
ほらね!
石清水八幡宮の話は終わりましたが、続きがあったでしょう。
「続き」ついでに、次回ももう少し「続き」の地を歩いてみます。