森林浴&ウォーキング&初詣の下見 石清水八幡宮 その7 | あべしんのブログ

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京都・奈良・滋賀。寺社、古墳、花……、史跡をぶらぶら散策するおじさんの日記です。
京都市内は、ランニングしながら、ぶらぶらしていることもあります。

「初詣の下見」と「ちょっとしたウォーキング」を兼ねて、男山に鎮座します石清水八幡宮を訪ねていました。
この度、新たに国宝に指定されることになりました社殿を拝観したら、是非この展望台まで足を伸ばさないと――と書いていたところで、しばらくこのテーマの記事を書くのを中断していました。

スミマセン!

今月初旬には、写真のような紅葉でしたが、の時期もきれいです。初詣の帰りには、天気が良ければ是非お立ち寄りください。
初詣――もうそんな時期なんですね!

文学少年・少女の皆さまにおかれましては、谷崎潤一郎文学碑を外す訳には参りません。

伏見の丘陵から東山、比叡山、北山、そして愛宕山から西山と、山々に囲まれた京都盆地の景色を堪能できます。

そして、見ておいていただきたいのが、すぐ近くの風景です。
木津川宇治川桂川3川の合流地点と、その向こうの天王山を!

さて――。
ここでゆっくりしたら、帰路についてくださったら良いのですが――。


ちょっとだけ、寄り道しておきます。
展望台のすぐ下です。
京阪電車のケーブルカー、「男山ケーブル」男山山上駅です。

大正15年(1926)、男山索道として開業しました。男山鉄道に社名変更した後、京阪電気鉄道の子会社となりました。
昭和19年(1944)に廃止されることになりました。何故……?
戦争のために、資材が供出されることになったのです。全国どこにでも、そんな話がありますね。
昭和30年(1955)、京阪電気鉄道直営で復活することになりました。

どうしても歩いて参道を上るのが"シンドイ"人は、「男山ケーブル」をご利用ください。
ケーブルカーから、八幡市の町並み宇治川木津川、そして合流後の淀川等を遠望することができます。
"トンネル"もあります。京阪電車の"トンネル"は、京津線の「逢坂山トンネル」があるだけだそうなので、これはクイズになります。また途中には、全長100m余りの"男山橋梁"があります。
わずか3分の旅ですが、石清水八幡宮参拝まで、なかなか見ごたえのある景色のようです。

あっ、そうそう!
大晦日は、終夜運転が行われるそうです。それから、正月三が日には約5分間隔の頻発運転が行われるうえに、終発は通常より約1時間遅くなり、午後8時頃まで運転されるそうです。
と言うことは、展望台から京都市内の夜景を楽しむこともできます。前にも他のところで書きましたが、京都市内の夜景は大したことはありませんが……。

せっかくですので、ここから参道まで歩いて見ましょう。
――って、また参拝すんのかい!


小さな祠もあり、やはり「信仰のお山」です。主な樹木には説明板(プレート)も付けられていますので、植物観察もできます――前に書きました――。ちょっとだけですが、「森林浴&ウォーキング」です。

エジソン記念碑の建てられています「神苑」につながっています。

その途中――。
石清水八幡宮摂末社の三女神社(さんじょorさんみょうしんしゃ)の前を通ります。

3柱の女神さま――お待たせしました。
こちらの神さんだけ、紹介が簡単でしたからね!

宗像三女神(むなかたさんじょじん)のことです。宗像大社(福岡県宗像市)に祀られています三柱の女神さまの総称です。
沖ノ島の沖津宮 に祀られます多紀理毘売命(たぎりひめ) 、大島の中津宮に祀られます市寸島比売命(いちきしまひめ)、田島の辺津宮に祀られます多岐都比売命(たぎつひめ)を指します。

元々、宗像三女神は、宗像氏ら海人集団の祀る神でありました。そのことから、航海の安全豊漁などを司る海の神して信仰されてきました。
『記紀』では、天照大神〈アマテラス〉と素盞嗚命〈スサノヲ〉の誓約(ウケヒ=誓い)によって生まれた3柱の女神(タギリヒメイチキシマヒメタギツヒ)として、わが国の"神さま"となっていきました。

八幡信仰におきましては、『日本書紀』の中に、「日神がお生みになられた三柱の女神を、葦原中国の宇佐嶋に天降らせた」とあるように、三女神は、まず宇佐御許山(おもとさん)に降臨され、後に玄界灘に移られたとされました。そして、この三女神八幡大神の一柱・比咩神として祀られるようになりました。

この摂末社の三女神社三女神は、どちらの方か?――宗像大社宗像三女神か、八幡大神比咩神か、分かりません。


この近くにも、灯籠が何基か建てられています。中には「元禄三年銘」のものもあるそうです。

私は、どれか分かりませんでしたので、とりあえず写真の撮れたものを紹介しておきます。
アバウトで、スミマセン。


もう1回は、やっぱり参拝しません。
神さまも呆れられます。
参道を横切って、もう一度、東総門の下、細橋の前から裏参道を下って行きます。
やっとこさ!

石標に「右 いわし水 下り坂」とあります。こちらの道をとります。


こちらは裏参道脇道にあたります。
そして、摂社の石清水社が石段の途中の脇に建ちます。


石鳥居を潜った正面に、霊泉を祀る社殿と井戸があります。今も、清冽な霊泉が沸き出しています。「八幡五水」の一つです。

かつては、皇室や将軍家の参詣の際には、この水を汲んで本殿に献上するのが恒であったと言うことです。

石清水八幡宮は、元は男山山中から沸き出る清泉を神として祀ったのが起こりと伝えられます。ある意味、"摂社と言う"よりも、"当社のはじまり"と言うべき社です。

石鳥居は、寛永13年(1636)に、京都所司代の板倉重宗が寄進したものです。
※京都所司代は、京都・西国を管轄する江戸幕府の重職です。江戸幕府も、京都の東の入口であります知恩院を重視したのと同様、南の入口にあたります男山を押さえたのは当然のことですね。

この水を用いて、毎年2月はじめに湯立(ゆだて)神事が行われます。
この石清水社の井戸から涌き出る清水を汲み、本殿前に据えた釜で沸かします。釜には、洗米・御神酒・塩がともに入れられ、清められます。やがて湯は、白衣の襷姿の神楽女によって神前に奉納されるます。それから、神楽女が両手で持った笹の葉を煮えたぎった湯釜に浸し、厄除け・開運・五穀豊穣を祈って参拝者に振りまきかけます。

さて、その石清水社の側には、「瀧本坊跡」と刻まれた碑が立ちます。

石清水八幡宮には、明治時代はじめの神仏分離令まで、男山四十八坊と言われるほど、多くの寺・僧坊がありました。

さて皆さま、実は――。
瀧本坊は、松花堂昭乗が住した寺・僧坊だったのです。
慶長3年(1598)、昭乗17歳の時、瀧本坊実乗のもとで剃髪をして社僧となりました。このときから昭乗と名乗りました。そして、瀧本坊実乗に師事して密教を学びました。その後、権僧都宝弁について両部灌頂を受け"阿闍梨位"に上がりました。
寛永4年(1627)に師・実乗の遷化の後、瀧本坊の住職となりました。

晩年、松花堂昭乗は、近くの泉坊に、草庵茶室「松花堂」を構え、号も松花堂と号して、風雅三昧の生活を過ごしました。小堀遠州金森宗和沢庵宗彭らとの交遊もあって、「松花堂」はさながらサロンのようになったと言うことです。

石清水社から少し下がった所に、松花堂昭乗が草庵茶室を営んで隠遁生活を送った泉坊の跡地があります。


「松花堂跡」として、"国史跡"に指定されています。

瀧本坊からすぐ側であることが分かりますね。

今は、わずかに礎石らしきものが残るばかりで、何もありません。
明治初年の"廃仏毀釈"で、山上の僧坊はすべて取り払われることになったことは、前に書かせていただきました。

明治時代の半ば、茶室「松花堂」は、男山南東の松花堂庭園に移築されていました。


裏参道脇道を下りてきた――。


「駒返し橋」との石碑がありました。
ここは、石清水社の真下です。かつては、清水が流れていたのでしょうね。


この道を下りると、上り(参拝)の時に通りました表参道影清塚大扉稲荷社の前に出ます。


と言うことで、無事に男山を下りられそうです。
石清水八幡宮の稿は、終わります。でも、次に続きます。
?????――どう言うこと?