御廟から、新宝蔵に向かうのがいいのですが、残念ながら今は閉まっています。春は、3月1日から6月いっぱいの公開です。唐招提寺が伝える多くの文化財が収蔵されています。金堂に安置されていた木造大日如来坐像(重要文化財)のほか、旧講堂木彫群と呼ばれる奈良時代末期から平安時代にかけて制作された多数の木彫仏像が収められています。この時代の仏像制作の技法の流れをお勉強することができます。
――それは、また改めて❗
新宝蔵から西へ、はじめに目にするのは、南北に長い建物です。

北側が東室、南側が礼堂です。
鎌倉時代の建物(重要文化財)です。元々僧侶の起居する僧坊でした。この後で述べます講堂を取り囲むように、その西にも北にも同じような建物があったようなのですが、今はこの東側の部分だけが現存します。

通路(馬道)より南を礼堂と言うのは、10月に行われます「釈迦念仏会」」の会場となるからです。この法会では、鑑真和上が唐から持ってこられた「如来舎利三千粒」を納めた白瑠璃の壺を奉安するか「金亀舎利塔」(国宝)が本尊として礼拝されます。平素のご本尊は、清凉寺式釈迦如来立像(鎌倉時代・重要文化財)です。
(↓唐招提寺HPより「金亀舎利塔」、普段は鼓楼に安置されます。)

礼堂の東側に、南北に高床の'校倉造'の建物が2棟並んでいます。北側のわずかに大きい方が宝蔵(国宝)です。南側は経蔵(国宝)で、唐招提寺の中では最も古い建物です。この地が、新田部親王邸であった頃からのもので、元は米倉だったものが改造されたものと言われます。日本最古の校倉です。

この辺り、桜や紅葉の撮影スポットです。
季節は違いますが、古い写真が携帯に残っていたので、1枚……。

この唐招提寺は、新田部親王の旧邸が鑑真和上に与えられ、その地に建てられたものです。
新田部親王は、天武天皇の第7皇子です。母が藤原鎌足の娘・五百重娘であったことが大きいと思われます。奈良時代、聖武天皇が皇太子の頃から、その補佐役として活躍します。
兄の舎人親王――『日本書紀』の編纂を主催した皇子――とともに首皇太子 (聖武天皇) を補佐しました。平城京の政府では主要な官僚として活躍し、長老として重んじられました。
藤原不比等の死後は、軍事面でのトップとして、神亀6年(729)の長屋王の変で、王を尋問しました。
しかし、その子〈塩焼(しおやき)王・道祖(ふなど)王〉や孫たちは、平城京政府内の政争、皇位継承争いに巻き込まれ、あるいはその争いに自ら入り込み、不幸な末路を辿ることになります。
道祖王は、 聖武太上天皇の遺詔で孝謙天皇の皇太子にたてられました。しかし、天平宝字元年(757)、孝謙天皇から、その素行を理由に、その地位を廃されます。橘奈良麻呂の変(757年)では連座し、'麻度比(まとひ)'と名を改められ、拷問をうけて命を落としました。
塩焼王は、道祖王の兄。妻は聖武天皇の娘の不破内親王です。
天平14年(742)、伊豆国に流されます〈理由は不明〉。3年後、赦免されて帰京し、元の位(正四位下)に復されます。
弟の道祖王が皇太子を廃されると、後継の皇太子に推されましたが、孝謙天皇に反対されて実現しませんでした〈皇太子には舎人親王の皇子・大炊王=のちの淳仁天皇が立てられます〉。しかし、位階は上がり、大蔵卿にも任じられました。
橘奈良麻呂の乱では新天皇候補の一人に挙げられて関与を疑われますが、不問に付されます。その翌年=天平宝字2年(758)、「氷上真人」の氏姓を下賜されて皇親の身分を離れます。
その後、淳仁天皇を擁して政権を握っていた藤原仲麻呂(恵美押勝)に接近して栄達をはかりました。しかし、仲麻呂が武装叛乱に追い込まれ(藤原仲麻呂の乱・764年)、敗走すると、近江国で仲麻呂一家とともに殺害されるという不幸な最期を遂げます。
塩焼王の妃・不破内親王(ふわないしんのう)は、聖武天皇の皇女です。
神護景雲3年(769)、子の氷上志計志麻(ひかみのしけしまろ)を皇位につけるため称徳天皇を呪詛しようとした疑いで、'厨真人厨女(くりやのまひとくりやめ)'と名を変えられた上で平城京外に追放されました。その後、無実としてゆるされました。
天応2年(782)、志計志麻呂志の弟の氷上川継(かわつぐ)は謀反を起こします。それにより、内親王は、淡路島に流されます。それから後、和泉に移された記録はありますが、その後の消息は不明です。
※延暦24年(805)に川継の罪は許されます。また、氷上志計志麻呂と氷上川継を同一人物とする説もあります(個人的には賛同しませんが……)。
新田部親王は、天平7年(735)に亡くなりますが、その後、その邸がどのような経緯で鑑真和上やその弟子たちに渡ったのかは、わかりません。
不幸な身の上を辿る子や孫たちに相続されてからなのか?
※『氷輪』の中で、永井路子さんは、ご自身のお考えで話を進められています。
次は、礼堂の西側(金堂の方)に回ります。
鎌倉時代の建物・鼓楼(国宝)です。2層の楼閣建築で、上下階とも縁と高欄が取り付けられています。普段は、下層内部の厨子内に、先ほど述べました仏舎利を納めた「金亀舎利塔」が安置されています。これも先ほど述べました礼堂から、舎利を拝めるようになっています。

5月19日には、この楼上よりハート型の団扇(うちわ)がまかれます。「うちわまき」は、鎌倉時代、唐招提寺中興の祖であられる覚盛(かくじょう)上人が、修業中に肌に止まった蚊を叩こうとした僧に「血を与えるのも菩薩行」と諭されました。その徳を称え、宝前に蚊を追い払うための団扇を供えたことから始まりました。正しくは、「中興梵網会(ちゅうこうぼんもうえ)」と言います。
※現在は、安全に配慮され、先着400人に参加券を配布され、午後から400本限定で鼓楼からまかれるという形をとられています。また、1.000本分は配布という形をとられています。抽選券を配布され、「うちわまき」終了後に、当選者がを発表されます。
こちらは、団扇の形のお守り(ストラップ付き)です。これなら「梵網会」の日でなくてもいただけますし、何時でも身に付けていられます。

鼓楼の北側に建っているのは、国宝・講堂です。鑑真和上が、この地に当寺を開創するにあたり――当初から寺院であったかどうかは別として――、平城宮の東朝集殿を下賜された建物を移築したものです。唐招提寺では、最初に建設された伽藍で、鑑真和上の生きているうちに建てられた可能性が高いとされます。講堂とは、文字通り「衆僧が集まって講義を受ける場」です。鑑真和上やその弟子たちが目指した唐招提寺のあり方がそこにあったとするならば、ここが一番に建てられたのは、もっともだと思います。
屋根が、入母屋造りに変わっていますが、奈良時代の平城宮の建物で、唯一残っているものです。
※朝集殿は、朝堂院の南に、つまり朱雀門(平安宮では応天門)から入ってすぐの所に建てられた殿舎です。
朝廷の事務、天皇即位や元日朝賀などの儀式、節会などに参集した朝廷の臣下や官人が、身づくろいをして待機するための控えの殿舎です。東西2棟がありました。

先日、妙心寺を訪れました回の冒頭で書きましたが、古い物をほとんど見ることのできない京都人としては、ここ唐招提寺のある奈良は羨ましい限りです。
講堂のご本尊は、弥勒如来坐像(鎌倉時代・重要文化財)です。金堂の三尊と合わせて、顕教四仏となる配列だそうです。
弥勒は、釈迦の入滅後、兜率天で修業(または説法)され、56億7千万年後に、この世に現われて悟りを開き、多くの人々を救済するとされる仏さまです。
菩薩さまの姿で表されることが多いのですが、ここ唐招提寺講堂では、如来さまのお姿、つまり未来のお姿です。
※このブログでは、興福寺北円堂に続き、2例目の「ミロク如来さま」ですが……。
奈良時代の持国天、増長天も見ものです。
「その1」でお伝えしたものも、ご覧ください。
(↓唐招提寺HPより、弥勒如来坐像)

講堂の前、鼓楼と対称の位置(左手・西側)にあるのは、鐘楼です。梵鐘は、平安時代のものです。

この角度も、別の季節には、改めて撮影してみたいものです。
これで、唐招提寺の伽藍をおおよそ見て参りました。
最後は、休憩所・売店で、お土産のポストカードを選んで、お香を選んで……。もちろん休憩が主な目的ですが。
もう一度、金堂のご本尊のお顔を見させていただき、帰ることにましょう。

あっ、帰りに休憩所・売店の南にある弁天社にお参りして、最後のお願いをして帰ることも……。
「戒律」とは正反対の生き方をしている私ですが、この社だけは「現世利益」的なお願いもできそうな気がしまして――✨

では、唐招提寺を離れることにしますが、次回にちょっとだけオマケ編をお伝えします!