前回の続きです。

長くなるので、ご興味があれば
時間のあるときにでもどうぞ♪



1863年、新選組が誕生するんですが
新選組の前身となる浪士組の経緯については
新選組の本を1冊でも読んだことのある方は
ご存知だと思います。


ですが、この浪士組は当初、一般公募ではなく
推薦によって決められるはずでした。

「浪士一件」っていう史料があるんですが
これに清河八郎がピックアップした浪士の名前が
書かれています。

そのメンバーは坂本龍馬、久坂玄瑞といった
新選組が追う立ち場の人たちがリストにあがっていました。

でも、これはどういうわけか実現せず
皆さんがよくご存知の一般公募の形になり
その中に近藤さんをはじめ、試衛館のメンバーがいた、
というわけです。


そして、1863年2月23日に上洛。

で、ここで有名な新徳寺での清河八郎の演説に
芹沢さんや近藤さんが反発・・・っていう流れになる。

でも、その次の日に、清河八郎が朝廷に上申書を提出してるんですが
それには、近藤さんや芹沢さん一派は署名しているし
近藤さんもこのことは手紙で書いて故郷へ送ってるんです。

なので、この時点で清河八郎と近藤さんたちの間で
意見の相違はないことになり
新徳寺での対立は有り得ない話になるんです。


でも、その後も清河は上申書を提出していますが
それに近藤さんたちが署名したかはしたかは不明なんですが
おそらく署名はしてないだろう、と。


結局は、清河八郎は、前年の生麦事件もあり
横浜での攘夷

近藤・芹沢一派は大阪での攘夷

という点で意見の相違ができ、近藤さんたちは
京に残ることになります。

だた、子母澤寛の影響なのか
清河とは、意見が対立し、喧嘩別れになり
食いぶちがなくなって会津藩に助けを求める、と言う風に
思われがちなんですが
決してそうではないようで・・・。

ただ、そうなると、近藤さんたちが清河暗殺を
企てた原因がわからなくなる。
その部分は、確定できる史料が発見されてないため
ハッキリとした原因はわからない、ということなんでしょうか(・・;)




その後、新選組は池田屋事件、禁門の変と
長州と対立することになります。


同じ「尊王攘夷」の思想を持ちながら
「だれが攘夷」を実行するのか、という部分で
大きな違いがありました。

近藤さんたち→天皇の下で将軍が攘夷

長州→天皇の下で将軍だけでなく毛利家や長州全体で攘夷


なので、近藤さんは長州のせいで攘夷ができないと
長州征討に力を入れるようになります。

(ただ、新選組池田屋事件以降、攘夷にこだわらなくなり
思想集団として、維持することを断念している
というのは前にも書いたとおり。
詳しくはこちらの記事を・・・)




薩長の最大の敵は、天皇を握っている一会桑でした。

慶喜が将軍になったため、一会桑は解体するんですが
王政復古のあと、新選組は慶喜政権の直属軍隊に編入されます。




そして、話は戊辰戦争へ。


新政府ができて、天皇が即位し
それについて行くのは当然のことであり
土方さんたちもそうしたかっただろう、と。

でも、それができない理由があった。

それは「一会桑」とつながりがあったから。

特に新選組は慶喜政権の直属の軍隊になり直参になれた
っていう恩がありました。


王政復古で、徳川は領地を削られるなどの仕打ちを受けるのですが

主君が無礼なことをされて黙ってられるか!

という、武士道といいましょうか汗
最後、蝦夷まで戦った人全員が
天皇ではなく、薩長に対して、そんな思いがあったんです。


なので、この戦いは「一会桑VS新政府」。

よく「旧幕府VS新政府」
と言われますが、それでは違ってくると。


それと同時に、徳川の家臣が路頭に迷うのを
防がなければならない、というのも理由のひとつでした。


ですが、仙台から箱舘に向かう途中で
武器や資金を積んだ船が沈没してしまい
箱舘市民に重税を科すことになってしまった。

そのため、榎本軍は市民の反感を買い
歓迎されなかったことが
外国側に察知されてしまい
当時、最新鋭の甲鉄艦が新政府に渡ってしまったんです。
(それまでは、外国側も中立だった)


同じようなことが会津にも言えることであり
在京のために会津藩は領民から重税をかけざるを得ず
市民を苦しめる結果になってしまいました。
そのため、市民は新政府軍を歓迎する形になり
会津は簡単に落ちてしまう、という結果に・・・。

鶴ヶ城に領民が立て籠もる、というのは創作だそうです( ̄_ ̄ i)


要は、榎本軍も、会津も領民へのケアをきちんとし
領民を味方につけるか、そうでないかで勝敗が決まったようなもの。

長州はそれが完璧だったんです。



そして、箱舘総攻撃。




(画像はお借りしました)


青い○印が新選組が孤立してしまった弁天台場です。

土方さんが銃撃に倒れたとされる場所で有名なのは
赤い○印の「一本木関門」。

これは、土方さんの死後に安富才介が書いた
手紙から、そこに碑が建てられています。


でも、もうひとつ有力とされているのが「異国橋」です。


これは、『島田魁日記』や『中島登覚書』に記されており
今のところ、土方さんの戦死場所は
「一本木関門」と「異国橋」のふたつが有力とされています。


その明治初期頃の異国橋。



(画像はお借りしました)


この付近で、土方さんが・・・と思わせるような完璧な写真涙




時間が無くて(20分ほどオーバー)
最後は駆け足のような感じでしたが
新選組を最初から、最後まで語ろうと思えば
2時間じゃ到底足りない・・・ちーん


終わったあとの、充実感と言ったらもう・・・きらきら!!きらきら!!



でも、そうなると斎藤さんが
会津と行動を共にした理由がわからないような・・・。

以前、斎藤さんは実は、会津藩が
新選組に潜らせた使者?っていう説を
どこかで見たんですが
何の根拠もない説だったので、スルーしたんだけど

まさか、本当にそうだったんだろうか?

と思ってしまった(笑)

二次元では、『風光る』がそのように描かれているので
ちょっとビックリだったんですがaya


時尾さんと結婚するとき、仲人を容保公が
やったくらいだし・・・。


うーーーん・・・無無




てなわけで、分けようかと思ったけど
一気に書いてしまったので長くなりましたちーん



うまくまとめられたかわかんないけど
聞き逃してたり、理解不足もあると思うので
興味のある方は、また本で調べてみてくださいNO