※ちょっと今までの復習を兼ねてるので
とても長いです(-"-;A
史実に興味ある人は読んでください汗



昨日、土曜日は
前の記事にも書いたように
祇園方面へ。

この日の祇園はもう
人がてんこ盛り汗

今回は、八坂神社から西にある
花見小路通りへ。







目的はこの通りの角にある
『一力亭』さん。





逆光になってしまったので
近づいて暖簾をパチリ。





『一力』とは「万」の字を
「一」と「力」に分けたもので
万屋(よろずや)・万亭などとも呼ばれています。

以前は、玄関が四条通りに
面していたようですが
今は、こうして花見小路通りに
面しています。


で、ここはどういう場所なのかというと・・・



文久3年に起きた、八月十八日の政変以来
佐幕派の会合が日夜、料亭で開かれていました。

そして、その年の10月。

この一力亭で公武合体派の会合が開かれ
新選組の近藤さんが出席。

この場で、近藤さんは堂々と

「朝廷と幕府、一致して攘夷を行うべき」

と言った持論を述べます。


前にも書いたけど
新選組はもともと
「尊王攘夷」掲げた思想集団です。


よく近藤さんは「武士になりたい」
土方さんは「近藤さんを上に担ぎ上げたい」

って思いで上洛したような感じに
書かれることが多いんですが
そうではなくて
元々の浪士組の上洛の目的は

将軍家茂が上洛する際の護衛と
大阪湾での攘夷実行


にありました。

ですが、それを待たずして
江戸に帰るという清河八郎に反発し
芹沢さんや近藤さんは
大阪で攘夷実行にこだわり
近藤さんたちは京に残ることになります。


ですが、外国との兵力の差が
圧倒的に違うことがわかっていた幕府は
将軍が上洛しても
なかなか攘夷を実行しようとしません。


そんな幕府を
長州側は「腰抜けだ!」と批判。


八月十八日の政変以降、新選組は
そういった「反幕派」の人たちの取り締まりが
仕事のようになりました。

でも、それは

「遅れてでも幕府は攘夷を実行する」

という確信が大前提でした。


でも、その後、将軍が再上洛しても
一向に攘夷する気配はなく

「攘夷を実行しないのなら組を解散させて
帰郷させてほしい」

と老中に迫ります。

ですが、この時は新選組の信頼も
高まってたときだったので

「徳川家臣に取り立てるから~」

と引き止めるんだけど
近藤さんは

「攘夷が実現していないのに旗本になれない!」

と一蹴汗



ですが、その後
薩摩は薩英戦争、長州は下関戦争で
攘夷を実行しますが惨敗。
軍事力の差を思い知ります。
そして、いつしか攘夷論から
開国論へ進んでいくことに・・・。



そして、元治元年。

このとき、長州も幕府も完全に攘夷を放棄。

でも、ややこしいかな。
天皇は放棄していないんです汗


もう長いので簡単にまとめてしまうと

池田屋事件以降、新選組に
幕府から、より高い禄位での話が持ち上がりますが
前と違って、近藤さんは受け入れる
姿勢を取ろうとします。
(この時は養父である、近藤周斎らの反対で
実現しなかったんですが・・・。)

このころから新選組は
「攘夷」へのこだわりを持たなくなってしまいます。


これを中村先生は

新選組を思想集団として維持することを断念した

とおっしゃっていました。


この当時の土方さんの手紙には


天皇に尽くすこと



幕府に尽くすこと


が一体と思ってたところ
それが目の前で分離してしまって
困っている

と言った感じのことが現れているそう。


浪士組のスローガンだった

「尽忠報国」=「尊王攘夷」。

新選組という名前になっても
近藤さんたちは
それを大切にしてきました。


その「尽忠」の部分が
目の前で分離してしまい

幕府に忠義を尽くす

という意味が出てきたのではないでしょうか。


なので、伊東さんが新選組に
入ったときには
すでに新選組は思想集団ではなかった・・・

というわけです。



だから、山南さんや藤堂さんと
意見の食い違いが出てきたのかな・・・と

私なりに解釈したんですが・・・。




あ~~、めちゃ長くなってしまいましたムンクの叫び


頭を整理しながら書いたけど
この辺は、私もうまく説明できないんだけど
わかりにくかったらごめんなさいちーんちーん



ここまで、目を通してくれて
本当に本当にありがとう~~aya