city gallery 2320 𠮷川直哉展
《ハッピー・シャドウズ》
写真の配置は大阪芸術大学 写真学科の生徒さんが行った
とか。
《Tの肖像》《写真計画》
《S家の底》
《1982/2025》
《スージーを探して_V》《スージーを探して_H》
白髪一雄記念室 第26回展示
「没後10年 白髪富士子
《無題》《無題》
《無題》
白髪富士子(旧姓 植村)は、1928年に大阪市南区順慶町通
(現・中央区南船場)で時計店を営む商家に生まれました。
高校卒業後の1948年、20歳の時に3歳年上で京都市立美術
専門学校の卒業を間近に控えた白髪一雄と結婚し、翌年に
長男を出産します。
子育てをしながら白髪の絵画制作を間近に見るうちに、
自身も創作に目覚めて作品制作を始めました。
1955年に白髪とともに前衛美術グループ「具体美術協会
(具体)」に入会すると、具体美術展や芦屋市展を発表の
場として本格的に制作発表を行います。富士子は和紙や
ガラスなど繊細な素材を作品に用いて注目を集めました。
しかし、白髪一雄の評価が高まり多忙となったこと
から、富士子は1961年に自らの創作活動に終止符を打ち
「具体」を退会。以降は自身の創作活動を一切行わず、
白髪のアクション・ペインティングを補佐し、長きに
わたり二人三脚で制作に励みました。2008年に白髪が
亡くなってからは静かな余生を過ごし、2015年に86歳
で亡くなりました。
白髪富士子の研ぎ澄まされた感性は、残された数少
ない作品からもうかがい知ることができ、近年その
評価は高まっています。
数年間ではありましたが、前衛美術家として才能を
発揮した白髪富士子の貴重な作品と、白髪一雄の
作品を合わせて、二人の歩みを紹介します。
開場の白髪一雄記念室は、尼崎市総合文化センターが休館に
伴い、この展示の終了をもって閉室するそうです。
次は
A-LAB
A-LAB
Exhibition Vol.50 碇栞奈 個展
「あれどもあらず あらずともある」
《底無の鏡》《救いの淵》
《うらみの蠕動》
《幽に夢見る》
《幽明異境》
古来日本の幽霊はこの世への情念を映し出す存在であり、怪談が
創造され、形象を与えられてきました。尼崎ゆかりの近松門左衛門
は人形浄瑠璃に怪談を生かし、人間の情念を巧みに描写します。
幽霊が描かれてきた歴史には、目に見えない存在に託した人々の
思いがありました。本展で紹介する碇栞奈は、現代における幽霊
の表現を探求しています。日本画材、とくに白色顔料と透過素材
を用いた表装の研究、そして自己への理解を深めることで描く
対象を顕らかにしてゆく試みです。日本画を継承し、古典の世界
に詰め込まれた人々の営みを今に生かせるかは、私たち次第かも
しれません。本展が私たちにとって見えていないもの、見ようと
してこなかったものを顧みる機会になることを願います。
碇栞奈
私は現在、現世と常世の融合を研究・制作のテーマに、幽霊を
始めとしたあわいに漂う“見えるけれど、見えない存在”の表現
を探求しています。「あわい」とは、境界のあいだに生まれる
曖昧で移ろう状態を指します。透過素材や反射素材、寒天引き
によって生まれる虹色の輝きといった現象を用い、あわいに
漂うものたちの“そこにいるようでいない、いないようでそこ
にいる”という曖昧な存在感を描き出したいと考えています。
幽霊画の系譜を継ぎながら、現象と描写によって表現する
ことで、見えぬものがふと立ち上がる瞬間を探り続けています。
この日、最後はVOU / 棒
「糸会」
アーティスト
伊勢周平、小左誠一郎、尾関諒、中嶋典宏

尾関諒《公演》《マンガを読む男》

尾関諒《月》

伊勢周平《花束》《花束》
「糸会」は過去10年以上に渡り絵画について語り合い、互いの作品を
鑑賞し、展覧会を開催してきた4人の作家による企画だ。
2023年には東京都美術館の「都美セレクション」に選出され、2025年
にはCADAN有楽町、Gallery10[TOH]にて展覧会を開催してきた。4人の
関係は展覧会という一過性の枠組みを超え、絵画(作品)を求心力として
今日まで更新してきた。個々の制作においても共鳴と反発を表明し合い、
建設的かつ有機的な繋がりが生まれている。思考や手法は異なるものの、
社会性や物語性を前面化しないことや、明確なプランを用意せず即興的
に制作するなど共通点も見出せる。おそらく4人は制作において、一旦
わからないところまで降りたり、潜ったり、迷い込んだりする必要がある
のだろう。恣意的に無理矢理当てはめるのではなく、漂うさまを受け入れ
対話を楽しむように描く。一手打つ度に予想外の変化が繰り返され、
わからないところで描いている(描かされている)ような状態になる。
時には愉悦と共に筆を取り、時には台無しと共に筆を置く。その当たり
前のような手触りの往来は、ある種の禍々しさをもって作家を途方に
暮れさせる。その正答のない過程を紡ぎ、手繰り寄せていった絵画は
新鮮で生々しく、渾然と世界に同化していく。気づけば、今まで観た
ことのなかった絶景かのごとく眼前に現れ、観てみたかった“なにか”
となり得るだろう。