1993年、僕は設計部でMatradatavision社のEUCLID ISという3DCADを使っていた。

設計部には1台、生産技術部の試作課に2台あった。

設計者は200人くらいいたけど、2次元CADに馴染めなかった。

実験的に導入された最初期の3DCADを使わせてもらった。

この3DCADで最初に設計された電動工具WH12DCの設計者の下で働いたあと

EUCLID ISの操作を学ぶことになった。

実際には設計の第一線からドロップアウトしたのだけど、新しい分野に身を置くことで

気分転換させてくれた。

DECのALPHAチップのRISC型CPUを使ったワークステーションで、まだ、パソコンでは、グラフィカルな

ものはAPPLEからしか出ていなかった。MicrosoftはまだテキストベースのMS-DOS3.1で、

ウィンドウズ95はまだ出ていなかった。

その頃は、EUCLID ISはサーフェス型の3DCADで、その後出てきたUnigraphicsやIDEASのような

ソリッド型では無かった。

出来上がったサーフェスモデルから試作モデルを作るのに、3DCADデータからケミカルウッドを

ボールエンドミルで3次元切削して形状確認をしていた。

 

今の会社に入ってからは、国内設計だったが、それに馴染めず、英検準1級ということもあって、

アメリカの同業メーカーの設計、生産、品質保証、輸出入業務の多岐にわたる英文メールでの

連絡業務、コレスポンディングを設計に籍を置きながら行った。

そうこうする内、そのメーカーのロックヒルの設計やヨーロッパのデソータなどの関連会社と

メールで2次元や3DCADのデータをやり取りをして共同設計する共同設計者になった。

その時先方はProEngineerを使っていたので、大塚商会から同じものを導入してもらって

大阪にあった大阪城の隣にそびえる60階建てくらいのビルに入居していたProEngineerの

国内総代理店に操作のトレーニングに行かせてもらった。

2年前に別件の個人的な旅で大阪に行った時、夜の散歩で鴫野から京橋に歩いた時、

偶然にもあのビルの前に来て、こんな所にあったのかと感慨深かった。

あの頃は、不器用であまり設計の役には立たなかったけれど、技術者として色んな経験を

させてもらって、色んな所に行ったなと思う。

出張でロサンゼルスのホテルニューオータニにも泊まったし、夜の韓国焼肉屋では

VIPルームに通され、となりのテーブルはプロゴルファーの青木功氏が仲間と食事をしていた。

ビバリーヒルズの住宅街も連れて行ってもらったし、サンタモニカの広大な砂浜にも大感激した。

ロデオドライブにはFerrariスポーツカーの立派なディーラーがあって感激したものだった。

その夜、ホテルニューオータニの部屋でテレビを見ていると、昼間見たFerrariのディーラーが銃撃を

受けたというニュースが流れて本当に驚いた。

ホテルニューオータニから歩いてすぐの所にリトルトーキョーがあって、みんなで昼ごはんを食べた。

みんな顔は日本人。なんだけど、日本料理風のものを頼んだのだけど、まったく完璧に日本料理の

味がしないんだなあ。なんかアメリカ風の味、見た目は日本風。

ロサンゼルスでは我社の有力代理店を訪問して、その後JALと提携していたアメリカンエアライン?の

小さな飛行機でラスベガスに向かった。ラスベガスに行くのにこんなにボロい飛行機?心配だった。

窓から見ると一面のアリゾナの赤茶けた砂漠が延々と続く。アメリカって広いんだって心底驚いた。

ラスベガスにあるなんとか空港、名前は忘れたが、ゲートを出る前に僕ら日本人だけが銃を構えた

警備員に足止めされ、かばんの中身もスーツケースもすべてを床にぶちまけられ、中身をチェックされた。

ぶちまけられた中身は警備員は一切手を貸してくれず、情けない思いをしながら自分で一つ一つ中に

詰め直した。優しくない国だと思った。911でツインタワーが破壊された後だから仕方なかった。

ラスベガスでは比較的安かったと思われるRio all suiteホテルに泊まった。

色んなレストランがあったが、どれもいまイチだったけど、歩いて外に出るのは危険なので夕食は

その中の一つで食べた。

部屋はとてつもなく広かった。自分一人が泊まる部屋が、我が家の1階全部の面積ぐらいの広さがあった。

翌日のお昼は同期入社の当時まだ平社員だった今の社長とタクシーに乗ってHotel Bellagioに昼食に行った。

素晴らしい眺望の上階のレストランですごいご馳走を頂いた。庭にはエッフェル塔の小型版が建っており、

池から豪華な噴水が上がっていた。

夜はラスベガスの中心街をみんなで散歩した。海賊船のショーをやっているホテルで立ち止まって観た。

これが無料で観られるのか・・・日本じゃ考えられない。

ホテルベネチアンの屋内回廊は圧倒的豪華さだった。屋内にベネチアの水路があって、遊覧船まで往来している。

今思うと、世界を統べている巨大な支配層が作らせるにはたやすいことだったのだろう。

でも、今思うと、あの広大な砂漠をその広さ丸ごと豪華な舞台装置に造り変えるのにどれだけの知られない

一般労働者の辛苦があったのだろうと感じる。

当時はその豪華なラスベガスという広大な舞台を楽しんだが、まだその頃はそれを楽しむ旅行者だった。

仕事上の出張とはいえども。そのことに罪悪感は感じていなかった。アメリカってすごいなとしか思っていなかった。

でも、どれだけの一般労働者の重労働があったのだろうかと思う。その後日本に帰って究極の重労働を体験して、

今でも身体に大きな不自由を抱えながら、身体がまだ不自由でなかった頃と変わらないほどの重労働をしているから、

だからそう身にしみて思う。今は認められるためじゃなく、任務を完遂するために重労働するには不自由な体で挑んでいる。

それは、今までかえりみなかった尊敬できなかった同僚たちを助けるためでもなく、ただ、自分の力を

発揮すれば、周りの仲間だけでは達成できないことが可能となるからだ。認めてほしいという気持ちが主な動力となって

働いてはいない。それでも、仲間たちだけでは不可能なことが可能となることには誇りに思っている。

もう、認めてほしいと思ってやってはいない。でも、僕が尊敬できなかった人たちが時々歩み寄ってきてくれる。

僕はこれをどう受け止めていいかわからない。というのも、力を発揮して突破すれば、同時にこの体も傷が増えているからだ。

 

話しはそれたが、この会社でアメリカのロックヒルの関連会社とProEgineerで3Dデータをメールでやり取りして、お互いに

その3Dデータに形状変更を加え合うということで設計したトラック用大型トルクコントロールインパクトレンチCP7790AL-6は

ついに試作機5台ほどが完成した。設計の最初から最後までロックヒルの設計者と一から完成させた初めての機械だった。

試作機の一部はロックヒルの設計者のもとに送って、アメリカのトラック修理工場でテストしてもらった。きちんと動作して

なかなかの出来だった。

その試作機を一緒に設計したロックヒルのJohn Clay氏とは本当に仲良くなった。電話での設計会議カンファレンスコールにも参加した。

相手はクレイ氏では無かった覚えがある。彼の上司の女性だったような気がする。どうしても直接電話で詳細を打ち合わせしたいと。

彼とは個人的にもメールのやり取りをしていた。土日に自宅に問い合わせのメールが来たこともある。Facebookを始めた2012年頃まで

繋がりがあったことを覚えている。

試作機が完全動作することを確認したが、ロックヒルの設計拠点がヨーロッパに移ることになった。

その頃から、その試作機の量産は立ち消えになり、John Clay氏から個人的にメールをもらった。

設計がヨーロッパに移転するので、同じロックヒルの3Dプリンターメーカーに転職することにしたと。

これからもよろしくということだったと思う。それは2000年代の初めの頃だった。2012年頃まではつながりがあったから、

彼の言葉は本心だったと思う。彼には一度も会うこともなく、メールでの3DCADデータでダイレクトに金型を削ったのも我が社初で、

そこから彼と僕の共同作業で3DCADデータを2次元CADデータに書き起こした部分は大変だった。

2000年代初めでは珍しかったであろう完全リモートワークで設計した複雑回路の機械だった。

 

今では、3Dプリンターで最先端航空機まで作る時代になった。

きっと彼John Clay氏は今頃活躍しているだろう。