太郎が野球チームに入って、1年が経った。あの麦わら帽子を被って体験参加した日から1年以上も時が過ぎたのか…。誠に感慨深い。
せっかく(仕事が暇)なので、書き始めのブログをつらつらと眺めてみた。最初はあまりに運動神経が鈍く(今もだが)、幼稚園児と一緒の組で練習していた話など、ほのぼのさせられた。毎朝飽きずに自主練習を続けた結果、何とかキャッチボールは様になってきたような気がする。
一方で、相変わらず直っていないな、と思う部分もある。ことあるたびに肘を上げろ、胸を張れ、腕を引けと言っているのに縮こまった手投げになっていたり、高めのクソボールを崩れた姿勢で振りにいったり…といったようなことである。
2年目のシーズンも始まり、少しはチームの戦力になれれば…と思うのだが、やはりまだまだそこまでには至らない。きちんとボールを止める、きちんと相手の取りやすいボールを投げる、ということがまだまだできていないのだ。
キャッチボールが大事、と各所で聞かされるが、しかしそれが、いかに奥深く、難しいことかと思わされる。未体験ゾーンだが、ピッチャーも同じですよね。キャッチボールが大事、と。恐るべし、キャッチボール。キャッチボールはすべての根底にあるのである。
父としての私も、チームにどっぷりつかるようになった。毎週末は野球だし、グランドの整備に球拾い、車出しに審判にボール磨きに…すべてタダ働きだが、不思議と苦にならない。
苦にならないのは、子どもたちのため、という意識があるからだと思う。この場合、我が子だけでなく、チームの子どもたちである。何だろう、可愛くなってくるんだよね。顔と名前を覚えて、性格が感じられるようになって、褒めて、ときどきたま~に叱って…とやっていると、愛着が湧いてくる。
この子たちが思い切り野球をできるように。我がチームの良いところは、多くのお父さんがこの思いを共有して、献身的に協力しているところだと思う。
ということで、毎週末の野球を楽しみに仕事を乗り切るようになった。どうして社会に出ると、こういうピュアで美しい人間関係を気づけなくなってしまうのだろうか。人間の業に気づく瞬間である。人間とは美しいものなのか、醜いものなのか--。となりの同僚の腹の内も分からない、一寸先は闇の世界である。
せめて職場の意思疎通は大事にしたい。こちらも言葉のキャッチボール。奥深い世界だ。