講義のためのメモ(2) | こはるーポカポカ日記

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みんな読んじゃいなよ!プチョヘンザ!!

高校一年生のための講義のメモ
走り書きのため文体不統一
誤字脱字未修正

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社会思想は何をする学問か。
一言でいうと、意味を考えるということ。

でもそれは、これこれの具体的な意味は何か、というようなこととは少し違う

人間にとって意味があるとはどういう状態のことか
世界は、人間にとって意味を持っている
たとえば空は、頭の上に広がっているが、それはレンズに映った映像のようにそこにあるわけではない
人間はその空を、何か意味のあるものとして理解している。
ほとんど意味のないものも確かに世界に存在しているが、意味がないものは、人間はほとんど認識していない。それは存在しているもか知れないが、無いのと一緒

みんな座っている椅子も、椅子だという意味が認識されなければ、切り株との差異はない
しかし切り株も、椅子だと認識されれば違う意味を持つ

人間が普段認識しているものに、意味のないものはない。人間は、意味のなかを生きている

道端の石ころ 意味がない、誰の目にも止まらない
それを磨く 意味が生じる(きれい、金持ち、ステータス、美人)
加工して結婚指輪になる 別の意味が付加される(愛、記念、誓約、束縛)
→浮気するときに指輪を外す

人間にとって究極の意味とは、自分の存在
自分が存在しているということ、自分が生きているということの意味

ところで、自分という存在の意味を我々が問うのはなぜか?それは。我々が生きているからだが、我々が生きているという事実は、いずれ死ぬという事実に照らして初めて明らかになる。死ぬという事実がなければ、わざわざ生きている状態を言い立てる必要がない。

空気があるという状態を我々は普段意識しないが、ひとたび水におぼれれば、空気の有り難さ(文字通り、有り難い、そのように有ることが難しい)が分かる。同じように、ひとたび死ぬということを意識すると、自分が生きているというこの状況が、とても有り難いこと、奇跡的なことが感じ取られる。しかし、何度も言うようにこの奇跡は、いずれが人間が死ぬという事実に照らしてこそ奇跡なのであって、もし人間が死なないならば、人間が生きていることは有り難くないし、奇跡でもない。

つまり人間の人生は、死ぬからこそ意味がある。しかしこのことは、私たちをある矛盾に直面させる。つまり、死を意識したことで人間の生は意味を持つが、そうしてせっかく意味を獲得した人間の生は、やがて死ななければならない。死というのは、人間の性に意味を与えておきながら、最後にはそれを奪うもの。死は、意味を与えて奪うものである。

ここには、ある種の相互参照関係があります。
人間は死ぬから、生が愛おしい。生が愛おしいから、やがて死ななければならないことを意識する。そうして死を意識すればするほど、生はもっと特別で、愛おしいものになる。

もっと善く生きよう。もっと人生を素晴らしいものにしよう。きっとそう考えるようになります。そこには良い循環が生まれます。

けれども、反対に、もし人間が死ぬことを意識しなくなってしまったらどうでしょうか?いま当たり前だと思っていることがいずれ失われてしまうということを、深く考えなくなってしまったら?いつか死ぬ、ということを人間が忘れてしまったら、自分が存在するということは、もう有り難いことではなくなってしまうでしょう。生きているということは、全然特別なことではなくなってしまいます。そうすると、私たちは自分という存在の意味を考えなくなり、生きていても死んでいても関係ない、となってしまうかも知れません。

しかし、では人間が死について考えなくなるなんてことはあるのでしょうか?みなさんはどうですか?死について意識したことがありますか?人間は、そもそも日々の楽しみや仕事に追われて、自分という存在や死についてゆっくり考えたりはなかなか出来ないものですが、とりわけいま、私たちはそれがしにくい社会に生きているように思います。

いまの日本は、毎日があまりにも忙しくて、日々の勉強や仕事を少しで効率的に処理することを求められます。巷の書籍などを見ていても、「リーダーの決断」というようなタイトルの本が溢れていて、迅速かつ的確に判断することはとても大切にされますが、ゆっくり時間をかけて、「あーでもないこーでもない」と考えをめぐらすことは、あまり大切にされません。そうなるともう、死について意識するなんていう時間はなくなってしまいます。

それに、いま私たちの生活の楽しみは、消費というものを中心に成り立っています。消費というのは、「人間の欲求を満たすために財・サービス(商品)を消耗する」という意味です。消耗、つまり、使い切って無くしてしまう、ということです。なくしてしまうとどうなるかというと、すぐに次の商品を購入して、また消費するわけです。人間が、こんな風にものを使い切って無くしてしまうというのは、当たり前のことではありません。むかしは、一着の服を買えば、それを何度も何度も繕いながら着て、サイズが合わなくなれば仕立て直して弟や妹、あるいは子供に譲る。それでも切れなくなってしまったら、そこからなにか小物入れを創ったり、大したものじゃなければ雑巾にしたりしたわけです。

だから、モノが本当に使えなくなる瞬間は、ある意味ではそのモノの死に立ち合うことでもあるわけで、それは幾ばくかの感動、心の動きをともなう出来事でした。だから、モノに感謝しなさい、つまり、そのモノがあることを、有り難いと思いなさいとなっていた。

ところが今は、使い切ったら捨てるのが当たり前です。そして捨ててしまっても、同じものが、あるいはもっと良いものがすぐに手に入ります。消費というサイクルのなかでは、モノは生と死は大きな意味を持ちません。だからモノは別に有り難くもなんともない。こういう状況では、人は死についてもなかなか考えられないかも知れません。

もっと大きな原因として、近代社会が死を管理してしまったということもあります。みなさんのなかで、人死ぬ瞬間を見たことがある人、命が失われる瞬間に立ち会ったことがある人いるでしょうか。近代以降、人々は死を、ある特別な空間で管理するようになった。病院、屠殺場など

こうして、私たちは死を忘れていく。すると、相対的に生の意味も減じることになる。

逆の循環

ここで一冊の絵本を紹介する
100万回生きたねこ

100万回死んで、そして100万回生きた猫は、そういう自分が一番大好きで、ほかの誰をもバカにしていました。けれども一匹の白猫を愛したときに、彼は自分よりも大切なものを見つけます。そしてその猫が死んだときに、生まれて初めて泣くのです。泣いて泣いて、自分も死んでしまいます。「ねこは、もうけっして生きかえりませんでした。」物語はそんなふうに終わります。

とても良い話ですが、ここで少し考えてみたいことがある。それは、猫はなぜ初めの100万回の生では死ななかったのか、そしてなぜ白猫とともに生きた最後の生では死んでしまったのか、ということ。初めの100万回の生と、最後の1回の生と、何が違うのか?

ここに、先ほどから話してきた、生と死の相互参照関係を見ることが出来る。人間は、死によって自分の生の「有り難さ」を知るが、生が「有り難くなる」ことによって、今度は逆に死が意味を持つようになる。

死というのは、私にとって生が大切なときに初めて意味をもつ。もし生に生きる意味がないとすれば、それを失うことである死にも意味はない。生に生きる意味があるときに初めて、それを失うことである死もまた、意味を持つ。ここでは、死を忘れないことで生が鮮明になるだけではなく、鮮明な生が死を思い出させている。

100万回生きた猫にとって、100万回の生は意味のあるものではなかった。誰も愛さず、自分だけを見て生きていた猫にとって、生は生きる価値のあるものではなかった。だから、猫にとって死にも意味なんてなかった。僕は、彼が死ななかったのはそのためだと思います。

ところが、一匹の白猫を愛したときに、彼の生は初めて意味を持つ。生がにわかに鮮明になり、生きる意味を持ち始める。すると不思議なことに、彼は死を思い出す。自分が死すべき存在であることに、いつか白猫を失うことに気づいてしまったのです。そして、彼は死にました。

人間の生命活動そのものは、神秘的ではあるが、単なる有機体の様々な反応の集積に過ぎない。しかし、人間が生きるということは、単なる生命維持活動を超えて、生と死の相互参照関係のなかで「生きる意味」について模索し、創造するということ。
メメント・モリ