自分の書いたものにどんな価値があるのか。
それは、なかなかわかりません。
もし明確に分かる人がいたら
その人は迷いなく、書くことができるでしょう。
ものを書くとき
ゴールが見えていたなら
それは有利に思えるかもしれません。
ところが、
そうして書かれたものは
概して生まれながらにして見透かされたものです。
自分より先に、読み手が結論にたどり着いてしまいます。
ですから、
この場合、結論でなく、その過程や情報(読者にとって未知の)に
価値があるといえるのです。
多くの場合、結論は「納得できる結果」であり
結論は、それ自体寂しさを帯びているといえます。
出てきたときには、あ、知ってる、そうだよね、というような。
結論の存在意義はいつも風前のともし火です。
それで
文章家たちは
結論のあとに余韻なり広がりである「おまけ」をつけることが多くなります。
(そうして、結論の登場を盛り上げるのです。)
つまり
「おまけ」や過程の、
読者が未知であったことや、その構文=文章の進め方に
価値があるといえるわけですが
それは読者に読ませてみて
やっと分かるというたぐいのものです。
* *
ところで、
詩の場合、
一般の文章とは
かなり違いがあります。
言葉自体が、価値を帯びているのが目指すところだからです。
それも、自分ではその価値に気づけないのが普通です。
なんと厄介なのでしょう。
しかしその厄介こそが
深みであり、創作する愉しみともいえます。
そしてその厄介の提示のしかたが、
詩人の特性として認知されていきます。
では、どうしたらいいのか
・・・いい詩を生むには
詩を価値あるものにするには、
ことばや言語表現の飛躍とか跳躍(非日常性)というものを得る必要があります。
それは、
文体やリズム、音楽性であったり、
レトリックであったりします。
レトリックというのは
表現技法のことですが、
主に使われるのは喩法です。
詩人は、詩の価値が上がるように
努力を重ねていますが。
仮に価値を得たと手応えがあっても
敗北してしまうことがあります。
それは、現世や世間に存在した瞬間に
固形化してしまうからです。
その真髄を姿・形が隠してしまうのです。
ここからは
とてもむずかしいはなしなので、
また別に機会に。
この文章には、結論は置かないことにして・・・。