詩の学校 ポエムファクトリー

詩の学校 ポエムファクトリー

詩・作詞・書籍編集 松崎義行

ありがとうございます!
次回の札幌ポエムファクトリー(ポエトリースクール)は、
 
【夜の部】札幌ポエムファクトリー
◇日 時:2020年11月15日(日)18時30分~21時
◇場 所:俊カフェ(札幌市中央区南3条西7丁目KAKU IMAGINATION2階)
◇参加費:3000円プラス飲み物代

【夜】絵本ワークショップ
◇日 時:2019年11月16日(月)19時~21時
◇場 所:俊カフェ(札幌市中央区南3条西7丁目KAKU IMAGINATION2階)
◇参加費:4000円プラス飲み物代

どなたでもご参加いただけます。ポエムファクトリーは、当日、自身で書いた作品を1作品、12部持参してください(作品がなくても参加できますが、あったほうがより楽しめます)。

俊カフェは札幌・狸小路7丁目裏の谷川俊太郎さん公認の展示カフェです。
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札幌ポエムファクトリーの詩集
現在、詩集第3弾「詩の結晶は七角形」(ポエムピース刊)が絶賛発売中です!お求めは、Amazon、書店、俊カフェなどで。第1弾「愛のカタチは詩の形カタチ」(同刊)もよろしくお願いします。

ご予約はメッセージかメール matsuzakiyoshiyuki@gmail.com で!
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自分の書いたものにどんな価値があるのか。

 

それは、なかなかわかりません。

もし明確に分かる人がいたら

その人は迷いなく、書くことができるでしょう。

 

ものを書くとき

ゴールが見えていたなら

それは有利に思えるかもしれません。

 

ところが、

そうして書かれたものは

概して生まれながらにして見透かされたものです。

自分より先に、読み手が結論にたどり着いてしまいます。

 

ですから、

この場合、結論でなく、その過程や情報(読者にとって未知の)に

価値があるといえるのです。

 

多くの場合、結論は「納得できる結果」であり

結論は、それ自体寂しさを帯びているといえます。

出てきたときには、あ、知ってる、そうだよね、というような。

 

結論の存在意義はいつも風前のともし火です。

 

それで

文章家たちは

結論のあとに余韻なり広がりである「おまけ」をつけることが多くなります。

(そうして、結論の登場を盛り上げるのです。)

 

つまり

「おまけ」や過程の、

読者が未知であったことや、その構文=文章の進め方に

価値があるといえるわけですが

それは読者に読ませてみて

やっと分かるというたぐいのものです。

 

 

* *

 

 

ところで、

詩の場合、

一般の文章とは

かなり違いがあります。

 

言葉自体が、価値を帯びているのが目指すところだからです。

それも、自分ではその価値に気づけないのが普通です。

 

なんと厄介なのでしょう。

 

しかしその厄介こそが

深みであり、創作する愉しみともいえます。

 

そしてその厄介の提示のしかたが、

詩人の特性として認知されていきます。

 

 

では、どうしたらいいのか

・・・いい詩を生むには

 

詩を価値あるものにするには、

ことばや言語表現の飛躍とか跳躍(非日常性)というものを得る必要があります。

 

それは、

文体やリズム、音楽性であったり、

レトリックであったりします。

 

レトリックというのは

表現技法のことですが、

主に使われるのは喩法です。

 

詩人は、詩の価値が上がるように

努力を重ねていますが。

仮に価値を得たと手応えがあっても

敗北してしまうことがあります。

 

それは、現世や世間に存在した瞬間に

固形化してしまうからです。

その真髄を姿・形が隠してしまうのです。

 

ここからは

とてもむずかしいはなしなので、

また別に機会に。

 

この文章には、結論は置かないことにして・・・。

 

 

詩に名前を入れるとき、これは本当に自分のものかな、と

思って手が止まるときがあります。

盗作だということではなくて。

 

名前を入れることで

読む人が他人の所有物を「見せてもらう」という

感じにならないかな、と心配になる。

 

というのは

美術館で絵を観るときに、

サインが絵に入っていて

邪魔な感じがするんです。

絵の世界に没頭できない。

という経験がるあるからです。

 

古い時代から

なぜ

絵にサインがいれられたのでしょうか。

裏に入れておけばいいのに。

 

そういえば、

こどものころから、

車とかオーディオに

メーカーの名前が入っていることにも

?(ハテナ)だらけで

ステレオ(死語ですが)のメーカー名の銘板を外して

叱られたこともありました。

 

自分の名前を入れるなら

所有者が!

と思ったのですが、

なんで所有者じゃないのに名前を勝手に入れるんだ!と。

 

名前を入れるというのは

強いメッセージですね。

 

署名、とか有名の価値とか

名前があることでいいとこは確かにあると思うのですが

入れ方には気をつけたいと思うのです。

 

無印良品が登場したときには

メーカーの名前を知らずにすむ自由を手に入れたみたいで

拍手を送りましたが、

あとから、あれも作り手ではないが、無印という確固とした

ブランド名が入っていることに気づきました。

 

豆腐を豆腐売りからかうように

名前のないものを買いたい、

名前のない作品を見たい!

そんな欲求が心の底の方に溜まっています。

 

詩を読むとき

作者の名前を意識しないで読むこと。

でも、でも、これは、違う感じがしたのです。

意識したほうが、豊かだと。

いや、意識してもしなくてもいい、というのが豊かだと。

 

詩を書くときも

同じかもしれませんね。

 

自分の我を表すべきか。

我はだめだがオリジナリティーはOKか。

そりゃそうだ。

 

作家性を楽しむ、

継続的なテーマの追いかけを楽しむというのはむしろ王道。

 

自分の作品を作るとき

自分のテーマを追い続けているか

そして

そのどの位置に

名前を記すかどうかも

詩の一環であると

思うのでした。

 

(私、無名の詩も書いています)

 

 

 

追伸

 

でも、サインがあることで

その作家と繋がって

お礼が言えたような気がすることもあります。

 

 

 

 

 

 

詩集を作る

 

 

作品が溜まってくると、まとめて本にしたくなるのは自然です。

私も溜まってきた作品を何度となく本という形にまとめてきました。

人生経験が浅く、活動範囲の狭い思春期のころは

ちょっと背伸びして好きな詩人の真似をして詩集にまとめ上げました。

まとめ上げるポリシーはすべて勘に頼りました。

 

溜まった詩を見ると、季節の順に並べられる気がして

詩を書き始めた5月から、順に並べていきました。

 

なんだか物足りない気がしたので、

一番最初に序詩を書き下ろして加えました。

その詩は、全体を見渡すような、

詩集のテーマ(詩人のテーマ)を表すような詩であったと

あとから気づきました。

 

ところが、

まだまだ物足りない気持ちは消えなかったので

目次を付けて

目次の詩のタイトルに一言コメントをつけることにしました。

良く雑誌にあるような形です。

書き終えるとあとがきもほしいな、という気持ちになりました。

そこであとがきの代わりに詩を書きました。

 

ここには言いたいことをダイレクトに書きました。

それは、まだ出会ってない読者との出会いに憧れ、感謝する気持ちでした。

そうして全体が出来上がってきたのですが

きっと

もっとかっこつけたいという欲張りな気持ちが働いたのでしょう。

知り合いの学者先生(恩人)に

跋文(バツブン)を書いてもらうことを思いつき

早速依頼しました。

 

原稿が揃うと印刷所に持ち込み

活字にしてもらいました。

当時は和文タイプライターで打ってもらい

版下を作るという印刷方法でした。

 

本文を初めて活字で見たときの感動は

雑誌に掲載されたときの感動を超えていました。

生まれたばかりの「作品」に見えたのです。

 

それから学校の美術の先生に装画を頼み

それも印刷所に持ち込みました。

ゾウゾクするようなエロティックな抽象画でした。

 

詩集は印刷が仕上がった日が発行日でした。

隣の席の加奈子さんに見せたら

立ち上がって宣伝してくれてあっという間に

飛ぶように売れてしまったのです。

幸運なスタートでした

 

それから、自分の詩のテーマなど意識せずに

書きたいことを書き

溜まったら本を出す、という

贅沢でわがままな出版を続けてきました。

おかげで

書き続けることに喜びを感じているのですが

賞を取ったり、詩壇で称賛されることはありませんでした。

 

詩人たちとの付き合いも、

きままにしてきましたが

多くの出会いがあり、

自分の作品と比べてみることも、分析してみることも

数え切れないほどやってきました。

 

そのなかで、

当たり前といえば当たり前ですが

テーマを決めて、自分らしさを決め込んで詩を作っていくことの大事さを知りました。

しかし

それを知ったからと言って

好き勝手に書くことの楽しさを謳歌してきた自分は

姿勢を直すことが困難でした。

 

ただ、他人には、詩人が認められるために

テーマを決めて書くことの大事さを訴えています。

 

そういえば

先日高橋睦郎さんと会食の席で

高橋さんが若手の女性詩人に

テーマを決めて書いているか質問し

依頼原稿が多いからあまりそれができないと答えると

どんな依頼だろうがテーマに引き寄せて書かなきゃだめだ

というようなことをおっしゃっていました。

 

ベテランも新人もテーマを意識して作品づくりするのが重要なんですね。

あらためて自分のわがままさに

警鐘を鳴らしたい気分です。

 

 

「詩の時間」創刊記念イベントを表参道・spiralでやりました。来てくださったかた、ありがとうございます。(2019年2月22日)

いつの間にか、長い付き合いになっている詩人の谷郁雄さんからはいろんなことを学びました。

詩にたいする思いは、自分と似たものを感じますが、谷さんには私のような「逃げ」もの姿勢はありません。私は、たまに詩のマーケットから逃げ出して、振り向きざまに詩を生んでいることがあります。本の世界の住人を自負していますが、衝突を避けようとして逃げる訳で、でもその目的は、生き残って詩を生むことにあります。

谷さんが、死なずに詩を書き続け、読まれ続けていることに希望を見出したりします。

戦争に行った体験はないのですが戦友みたいな気持ちになるのです。松崎義行


ある種の人にとって幸せは劇薬である

 

信じられない人もいるでしょう。

幸せは人生の目的ではないか!

だとしたら、幸せが劇薬だなんて!

毎日幸せを当たり前に感じて生きていけたら

それは劇薬なんていうものではない!

 

確かにそうですが、

天の邪鬼な私にとって幸せはやはり人生の劇薬でした。

 

だって、手に入れたら最後

手放したときの痛みったらないのではないか。

その不安と喪失感に耐えられないのではないか。

それに

日常の幸せを受け取りなんてなんとなくはしたない。

手頃な夢を手に入れて

ロマンあふれる人生をさっさと諦めるような感じする。

 

それに

働かざるもの食うべからず。

贅沢は敵。

 

この身に染み付いたこの国の因習も

幸せをあっさり手に入れ

享受することを否定する。

 

まあそんなわけで

幸せを手に入れることを劇薬だ、麻薬だと

感じる人間がいるのです。

 

そんな私が

幸せは搾取されない

という本(詩集)を

精魂込めて作っています。

 

私は誰かがもっている幸せが

悪い人に奪われないことを願っています。

そう思っている「味方」がいることを知ってもらい

勇気の足しにしていただければと思っています。

 

本は、人気詩人の谷郁雄さんと同時に

「詩の時間シリーズ」として出版します。

 

3年ぶりの本です。

 

なんだかとても贅沢な気分で

この本の誕生を待っています。

 

「ここは花の島」(IBCパブリッシング)のときと同じ

文平銀座の寄藤文平さん、鈴木千佳子さんが詩の舞台(ブックデザイン)を

やってくださいました。

 

ポエムピースから、なんとか年内には出る予定。

著者の校正は終わりました。

 

皆様。ぜひお手にとってくださいね!

 

 

 

 

 

 

☆告知☆

 

次回の札幌ポエムファクトリー(ポエトリースクール)は、

第15回 
【夜の部】札幌ポエムファクトリー
◇日 時:2018年12月9日(日)18時~21時
◇場 所:俊カフェ(札幌市中央区南3条西7丁目KAKU IMAGINATION2階)
◇参加費:3000円プラス飲み物代

【昼の部】第16回 札幌ポエムファクトリー 
◇日 時:2018年12月10日(月)13時~16時
◇場 所:札幌市中央区南3条西1丁目1番地
南三西一ビル 6階(北邦学園会議室)

どなたでもご参加いただけます。当日はご自身で書いた作品を1作品、12部持参してください(作品がなくても参加できますが、あったほうがより楽しめます)。
***********************
札幌ポエムファクトリーの詩集
現在、詩集第2弾「振り向けば詩があった」(ポエムピース刊)が絶賛発売中です!お求めは、Amazon、書店、俊カフェなどで。第1弾「愛のカタチは詩の形カタチ」(同刊)もよろしくお願いします。

ご予約はメッセージかメール matsuzakiyoshiyuki@gmail.com で!

感傷的になると

 

 

感傷的になると、詩を書いていた。

中学2年のときだった。

気がつくと詩を書いていた。

感傷的になるたび、いつも詩を書き始めた。

毎日感傷的になったので

毎日詩を書いた。

それはいつもあたりまえのように訪れる時間だった。

感傷的になるのは辛さの味がするので

好きではなかったが

詩が書き上がると辛さは忘れ

満足感が湧いてきた。

日によっては、何かきっかけがあるたびに

感傷的になったものだから

何度もノートを開き

鉛筆で文字を書き入れては消し、消しては書き入れた。

書かれた詩が、どんなものであるか

僕はよくわからなかったが

自分を満足させるものであればよかった。

いままでに見たことがないようなものも書いてみたかったが、

誰かが書いた好きな作品に似ていると、それも嬉しかった。

感傷から生まれた作品が、価値のあるものかどうかは

直感的に測るばかりだった。

自分の中の他者が感嘆して絶賛すれば、それだけでよかったのだが。

 

感傷というものはそのままでは食べられない、ということは

その頃から知っていた。

他人の感傷ほど食えないものはない。

御免こうむりたいものだ。

たとえばそれが、

これから付き合いたい異性であったとしたなら

それをネタに近づくこともできるので

ある意味「おいしい」ともいえるが。

 

おしなべて、他人の感傷というものは

ほぼほぼ、近づきたくないものだ。

感傷というにわか雨を予測していたかのように余裕でかわして

濡れずにすんでいたなら

感傷の雨にずぶ濡れになる人を

優越感を味わいながら見ることもできるだろうが

たいていは水たまりのように避けて通りたいものだ。

 

ところが

中2のころの詩を書き始めたぼくは

その感傷を詩にして

他人が喜ぶと信じていた。

その感傷に共鳴して心が震わされると

感動を覚える、と思い込んでいたのだ。

 

さっき京都の街を歩いていて

急に感傷に襲われた僕は

詩が書きたくなって喫茶店に飛び込んだ。

そして感傷をネタにして詩を書き始めた。

 

書き始めて、ふっと、これでいいのか

誰かに聞いてみたくなった。

もちろん答えてくれる人はいないだろう

たぶんめんどくさい質問に

嫌気が差してしまうだろう。

 

僕は自分で考えることにした。

 

感傷を排せ

と、僕の詩を選んだ田村隆一は

僕の詩を引き合いに出して

「感傷のひとかけらもないじゃないか」と褒めた。

 

ただそのときに

「松崎くんはうまいという点では随一なんだが、伝わってくるものが少ないんだよな。

そのへんを考えてみてくれたまえ」と続けた。

 

僕の詩は感傷からスタートして

感傷を排し

伝わるものが少なくなっているのか。

 

自分に対する問いは続きながら

いつも時間切れで結論は持ち越しになっている。

もうすぐ40年詩を書いていることになるが

書きたいのは感傷ではないのか。

感傷はどう料理してもおいしくならないのか。

感傷が感傷でなくなったとき

なにか残っているのか。

 

もしかしたら

掘っていっても答えは見つからないのかもしれない。

いいかげんに流すとか

答えを求めないとか。

そのほうがいい結果になるのかもしれない。

感傷にとって。

だいじな感傷をまもり育てるため?に。

 

 

 

 

 

札幌に来ています。

 

きょう、俊カフェの主催で「DiVa」という

現代詩を歌うバンドのコンサートがありました。

 

言葉狩りが横行し

モンスターナンチャラが増えつづける現代、

詩は人の本当の姿を突きつけてきます。

 

言葉に遠慮はないのです。

言いたいこと、必要なことを表現するために

傷つく人がいるかもしれません。

 

だからといって

自主規制してしまってばかりでいいのでしょうか。

 

けれども、詩人といえど、市民

表現者といえども、消費生活を享受しています・・

それはそうなのですが。

詩人には詩人の役割があります。

 

大げさに言えば、人類の心の問題、未来に向かう意志を作る

扉を開いてゆくという役割です。

 

詩には「永遠に変わらないようなこと」が書かれているようですが

それを「一瞬の真実」と置き換えて言うこともできます。

また嘘をつくことが

真実につながることもあるのです。

 

詩人は手練手管で

言葉を疑い、操縦し、使いこなし

放り投げ、刷り込み、唱えます。

 

詩人は言葉と懇(ねんご)ろになりがちですが、

詩人はそのことに気づくと言葉に平手打ちを食らわして

立ち去ります。

 

言葉で世界を作ることができる知っている人は

詩のことばを操ろうとするがあまり

反対に操られてしまうことがあるのです。

 

きょう、DiVaのコンサートの歌をきいて思ったのはそんなことです。

DiVaの歌は、私に言いました。

 

「嘘でもいいから本当のことを言ってみな!」

 

なるほど「本当のような嘘」が溢れすぎて

なにがなんだか分からなくなる行き詰った世界。

戻って、勢いつけて、帳(とばり)を打ち破る勇気が必要なんでしょう。

 

 

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