奈良市【やまなかみゆきピアノ教室】山中です。
今日は、母の命日。…とブログに書くのは何回目?
三回目くらいかな。
母がどうやって死んだ…とかは、過去のブログに書いてあるので、それはいいとして…。
母が生きていたら、今の私を見て、なんて言ってくれるかなぁ、とか。
母が生きていたら、今の時代をどう生きただろう、とか。
母が生きていたら…、と考えてみるものの、いくら考えても仕方のないことだなぁ…とまた、ふりだしに戻る。
母が亡くなった2000年というと、まだ携帯電話が、棒みたいなやつで、もちろんメールとかも出来ない通話だけのものだった。
それでも、母にもしものことがあった時に…と思って、あまり必要でもなかった棒みたいな電話…を持っていた。
エレクトーンは、まだEL90を弾いていた。
今年成人式の娘は、幼稚園だった。
テレビは、まだ分厚いやつだった。
ヒートテックやブラトップもなかったけど、母はすでに、ワ◯ールのお高いブラトップを着用していた( ̄▽ ̄)
私が予想するに、母が生きていたら、ゲーマーだった母のことだから、たぶん、パソコン教室に通ってパソコンの達人になり、ネットを駆使した生活をしていると思う。
なんせ、私が高校生の時に、阪急百貨店とナビオ阪急の間コンコースを歩きながら、天井の空間を指差して、
『 美由紀、阪急がここの空間を買い取って売り場面積を拡大したら、日本一になるのになぁ、まあ、阪急のことやから、そのうちにするやろ』
と私に言っていた。
私は、『空間を買い取るって、どういうことよ?』と母の声を聞きながら思っていたが…。
それに、ここを通る何人の人が、上を見てそんなことを考えるのよ?って。
それが、30年後、ホンマに現実のものとなったんだから、びっくりだ。
母には見る目があったんや…と思う。
そう、昔から、先見の明があったというか、常に何か新しいことや、こうやればどうだろう…と考えてる人だった。
いつぞやには、残り少なくなった四隅にしかないようなファンデーションを何個か集めて、自力で固め、また半分くらいの量に再生して使っていたのには驚いた( ̄▽ ̄)
もちろん、さらっぴん にはならないので、表面はデコボコだったけど。
『どうやったん?これ』と聞くと、
『化粧水で溶かして固めた』と。
えらい!
と自分の母親に思った(笑)
水を混ぜるのではなく、化粧水で引っ付けようと思ったその知恵(笑)
マヨネーズの最後は、ハサミで切って、その中にポテトサラダのジャガイモを入れて、最後の最後まで使い切る。
テレビCMでやっているドモホルン◯ンクルの『最後の最後まで使い切る』って言いながら、チューブをハサミで切って、綿棒で中身を取る…なんてことは、当たり前のように、全てのチューブにおいてやっていた。
化粧品、歯磨き粉、のり(昔の手でぬるタイプ)ワサビのチューブ諸々…。
今、少なからず、それを受け継いでいる私( ̄▽ ̄)
母の命日に…、いろいろと振り返るのである。