心臓病の母が「寂しい」と言ったことがあります。

「死ぬのが寂しい」と。

発作を起こして救急車で運ばれ緊急手術を受け

容体が落ち着いて退院した後しばらくして。

今年(2024年)始めのことでした。

長生きする気満々だった母も少し弱気になっていました。

 

「苦労した時期もあったけれど

私と姉をここまで育ててきたじゃないの。

立派に生きてきたんだよ。

それは私や姉の中に受け継がれている。

あとは私と姉に任せてのんびり生きればいい。

寂しいなんて思わずに、楽しいことだけ考えて、

美味しいもの食べて、好きなことしていればいいんだよ。」

そんなふうに慰めました。

 

誰かが死んでも世の中は変わらず続いていくものだし

そのような死は誰にでも平等に訪れるものなのだから

死を畏れず受け入れて、流れに身を任せ生きれば良い

 

私は死生観として上記のようなことを常々思っていて

いつか訪れる自分の死もすでに受け入れているつもりです。

だから母にも目前に迫っている死をおそれずに

安らかな心持ちで最期の日々を過ごしてもらいたい、

そんな思いからの慰めの言葉でした。

 

それと同時に、85歳を超えてもまだ長生きしたいという母を

随分と欲張りだなとも思いました。

 

でも、自分ががんだと知った今は

母の気持ちが少しわかるような気がします。

 

私のいなくなった世界で

人々はそれぞれの人生を続けていくのです。

私がいても、いなくても、大した影響もない世界が存在し続ける。

それは当たり前のことだと思っています。

誰が死んでも世の中は続いていく。

それがこの世界の道理です。

誰でもいつかは死ぬ。

自分も遅かれ早かれ死ぬ。

 

私は素敵な夫と可愛い娘たちに囲まれて幸せな人生を歩んできた。

もう充分に幸せを享受した。

娘たちが独立して手がかからなくなり自分も50歳を超えた今、

これからの時間は余生だと思っている。いつ死んでもいい。

自分はすでに死を受け入れているんだ。

 

自信を持ってそう思っていました、自分ががんだとわかる前は。

 

今はちょっと自信がないです。

理性では死を受け入れています。

一般的な死生観としては、考えは変わりません。

でもいざ本当に死ぬときがきたら・・?

死が目前に迫っていると悟ったそのとき

感情がそれを受け入れ冷静でいられるかどうか・・

嘆き悲しむかもしれないし、

どうして私が!と怒りが湧くかもしれないし、

無気力になって何事も投げやりになるかもしれない。

自分がどうなってしまうか、わかりません。

 

ただ、今この瞬間にはっきり言えるのは、

幸せな人生をもうちょっと味わっていたいな、

今終わってしまうのは惜しいな、と思っているということです。

実は母と同じ、私も結構な欲張りなんですね。

 

   クッキー  クッキー  クッキー  クッキー  クッキー

 
コンビニで見かけて買ってみました。
一緒に買った SAVAS は私の口に合いませんでしたが
(↑ふすまの割合が多いのかパサパサで水分持っていかれる系)
こちらはサクサク食感 & ミルキーな味わいで気に入りました。