死刑台のメロディ | 温故知新 YEBISU NOTE

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 1920年4月15日 アメリカマサチューセッツ州ボストン郊外の都市で強盗殺人事件が起こった。

1ヶ月後逮捕されたのは、イタリア系移民のサッコとヴァンゼッティ、、、各々社会主義者、無政府主義者であった。


1920年辺り、米国では「赤狩り」が行われたらしい。両名ともそれにマークされてたらしいが、何とか免れていた。


今度の事件は、犯人は5人いると確認されているのだが、逮捕者は

2名、、それでも裁判は進んでいくサッコが主犯、ほか4名のうち1名はヴァンゼッティだとしても、他の犯人はどこにいるのか?根本的に事件の全容を解明する気などないのではないのか?


 無実を主張するふたりに対し、

検察は勿論、裁判官側さえも主犯はサッコであるということを前提として進んでいく。ふたりを犯人とする物証はない。それどころか、事件当日のアリバイも証明されているのに、そちらは証言者の記憶は信用出来ないとされ、逆にふたりを犯人とする目撃証言は不確かなものばかりなのに、証拠として採用してしまう。それどころかでっち上げの証言まで捏造されていた、、、さらには、弁護士の努力で実際に真犯人が存在するところまで突き止めていくのだが、それも却下される、、




 どういうことか?これは、所謂

「赤狩り」の続きであるようだ。

第二次大戦後、米国政府によるそれは有名であるが、1920年以前にもあったとは知らなかった。それはやはり1917年のロシア革命の影響だと思う。


 この作品、イタリア人として差別を受けるふたりへの冤罪を描く悲劇という面もあるのだが単なる虐げられる弱者を冤罪の犠牲者として葬りさるという類いのものではなかった。


 イタリア人、ポーランド人、プエルトリコ人は他にルーツを持つ米国人から差別を受けていたようだ。しかし、問題はそれだけでない。上記したように当時の米国は「赤狩り」が吹き荒れてあた。逮捕されたふたりはかなり強固な社会主義者、無政府主義者であり、ふたりともその思想には自信を持っていた!

忠実に国家を動かしていこうとする権力者からみれば、アナーキストもコミュニストもとんでもない

輩であったのだ。ましてや、イタリア移民など、、、


まず民族の問題だが、この時代は欧州出身の中でも格付けがあったようだ。はっきり言及されてはいないが、イギリス、フランス、ドイツにルーツを持つもの達が最上格なのでは?という気がする。


 時代は繰り返す、、、差別の対象がユダヤ人のこともあればアフリカ系の黒人のこともある、日系も含めてのアジア系もだが、最近では、南米系やアラブからの移民が差別の対象か


半世紀の時を経て、対象が変わっても根本的には同じようなことを繰り返しているのだろう。


それともう一つは、社会主義への恐怖からの「赤狩り」、、、


 特に資本主義国の盟主になったアメリカ合衆国。社会主義が台頭するのは恐怖であろう。そのためには、「小さな芽」から摘み取っておく必要があったのでしょう。

警察も検察も裁判官も行政(州知事)も皆で、権力へ反抗する政治的反対者を葬りさろうとする意図が端々に感じられる


 最初にも書いたように、単に民族的問題と冤罪が結びつくだけではない。大きな権力側の陰謀とも言える事件だったのだ、、


 そのあたりは、この作品のハイライトである法廷シーンで証されていくのだが、非常にスリリングであり、舞台劇の緊迫感を感じさせる。ふたりとも、イタリア映画界においては百戦錬磨の猛者であり強面でもある。安易に権力サイドが仕掛けた茶番劇に屈したりはしない。そして、自分の信条を貫き政治的殉教者として最後を迎えるところは凛としてて高潔な感じさえした。


実は、単に暗く重苦しいだけの作品ではないだろうか?とも思ってやや躊躇したのだが、悲劇的要素よりも「抗う」という点が作品の軸だったのではないかと思う。


後味は悪いが、見て良かった!と思える作品➡️ただ、念のために言っておくが、現実の自分が思うのは、自分自身の中に無政府主義者的な面はかなりある(笑 ただ社会主義や共産主義は全体主義、独裁主義につながると思うのでそういう政権にはNOである。しかし、資本主義が横暴になりすぎるものにならないためには、反対勢力として欠かせないものだと思う。


そして、今回、全国各地でエンリオ・モリコーネが音楽を担当した作品ということで、これもまた、なかなかシリアスな作品である

「ラ・カリファ」という作品とともに上映中のようである。

エンリオ・モリコーネも社会派だったのだな。因みに、主題歌を歌ったのはジョーン・バエズ(ある程度、年齢いってる人にはかなり有名)